ビール腹次官誕生?! 毎日新聞「次期次官は福田淳一主計局長に」 #ビール腹次官 #くたばれ財務省
ビール腹次官誕生?! 毎日新聞「次期次官は福田淳一主計局長に」
毎日新聞記事より。
これで確定なのでしょうか。
少し気になるのは、「体制を一新して」の文言でしょうか。
果たして、「何」が一新されるのか。
気になります。
財務省:次期次官に福田淳一主計局長 月内にも発令 - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20170616/k00/00m/020/074000c
麻生太郎財務相は15日、佐藤慎一財務次官(60)が退任し、後任に福田淳一主計局長(57)を昇格させる人事を固めた。首相官邸の人事検討会議を経て、月内にも発令する見通し。主計局長からの次官就任は2年ぶりとなる。
福田氏は1982年入省。予算編成を担当する主計局が長く、2015年7月に主計局長に就任した。財務省は、体制を刷新して18年度予算編成に臨む。
イギリス労働党の躍進と日本のリベラルの違い #緊縮は人権侵害 #日本の左派はシバキ主義
英労働党、若者に浸透 「反緊縮」、党首貫く:朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/articles/DA3S12983011.html
『日本をダメにするリベラルの正体』 の書評でも書きましたが、「財政赤字を減らすために人命まで犠牲にするのはおかしい」という庶民の声を拾いあげたのが英労働党。
右とか左以前に、人命よりも財政赤字削減が大事なんて、そりゃあ、オカシイでしょう。
その一方、日本の左派はというと・・・
(連合ニュース)
麻生財務大臣に対し「2018年度 連合の重点政策」について要請を実施
https://www.jtuc-rengo.or.jp/news/news_detail.php?id=1288
連合は6月2日、「2018年度 連合の重点政策」に関する要請を麻生財務大臣に行った。
1.日 時:2017年6月2日(金)15:30~16:00
2.場 所:ホテルニューオータニ内会議室
3.出席者:
(財務省)麻生太郎副総理兼財務大臣、岡本薫明大臣官房長、太田充総括審議官、
可部哲生主計局次長、矢野康治大臣官房審議官(主税局担当)、阪田渉大臣官房文書課長
(連 合)神津里季生会長、逢見直人事務局長、新谷信幸副事務局長、
安永貴夫副事務局長、川島千裕総合政策局長、平川則男総合政策局長
4.要請の概要
要請の冒頭、神津会長から麻生大臣に要請書を手交した。続いて、川島総合政策局長が以下のポイントを中心に要請書の内容を説明し、「経済財政運営と改革の基本方針2017(骨太の方針2017)」と2018年度予算に反映いただくことを求めた。その後、意見交換を実施した。
<主な要請のポイント>
①とぎれない震災復興をはかるための財源の確保
②政府予算の財政規律の厳格化
③所得再分配機能を高めるための所得税改革および給付付き税額控除の導入
④「地域包括ケアシステム」の構築に向けた診療報酬・介護報酬の同時改定の実施
⑤医療、介護、保育の人材確保
⑥「子ども・子育て支援新制度」実施のための財源確保
⑦就学前教育から高等教育まで、すべての教育にかかる費用の無償化
相変わらずの緊縮財政原理主義。
日本の左派、リベラルは単なる”シバキ主義”の別称に過ぎないと言えます。
『日本をダメにするリベラルの正体』
リベラルは泥棒のはじまり
■リベラルが盗んだもの③ 国民所得と経済成長~人権よりも財政再建が大事なリベラル~
最後に、日本のリベラルが盗み奪っているものとして国民所得と経済成長が挙げられます。
本書でも山村明義先生が指摘されていますが、安倍政権の行っている経済政策は実は「経済左派」の施策に他ならず、むしろ日本のリベラルの唱える経済政策は「経済右派」とも称すべき「シバキ主義」「清算主義」「設計主義」に凝り固まっており、とりわけ特筆すべき点として日本ではリベラルほど”増税”、”財政再建”を主張しているという”ねじれ現象”が生じている点が挙げられます。
カルビン・クーリッジ第30代アメリカ大統領は、「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である。」という名言を残しました。
またブレディみかこ氏という英国在住のリベラリストの著書『THIS IS JAPAN』によれば、「欧州では左派リベラルほど、大前提としてみな”反緊縮”の経済政策を志向している」と述べられています。
緊縮財政政策とは財政赤字削減を優先課題にすることであり、財政支出を削減したり、増税することでこれを達成しようとする政策のことです。
そうなると政府は公共投資を控え、福祉、住居、医療、教育といった最低限必要な分野への支出も減らし始めます。
イギリスでは過度な緊縮財政によって、公的インフラ削減・閉鎖によって公務員が失業または非正規労働者となったり、医者に診療を受けることが至難の業になったり、学校でも1クラス当たりの人数が増え、近所の学校が定員オーバーとなり街はずれの遠く離れた学校に通わなければならない生徒が出てくるという事態が現実に発生していると記されています。
極めつけは英国政府による障害者認定であり、障害者への生活補助金を削減するために「片手に指1本あれば就労可能」と皮肉られるほど障害認定の基準が厳しくなり、必要な支援を受けられなかった障害者が死亡するケースも相次いだため、国連から「英国政府は障害者の人権を侵害した疑いがある」として調査に乗り出す事態にまで至っているというのです。
「”財政赤字を減らすために人命まで犠牲にするのはおかしい”という庶民の叫びを反映させるために立ち上がったのがイギリスの左派系政党なのだ」
と指摘されています。
一方、日本ではどうでしょうか?
「緊縮財政は人権侵害だ」という声が日本のリベラルから聞こえたことはありません。
むしろリベラルが率先して「増税しろ、財政再建しろ、そのためには社会保障を、公共投資を削減しろ」と主張しているではありませんか。
ここに取り上げた事柄だけでもいかにリベラルが嘘と欺瞞にまみれているかということが明らかになっていると言えます。
社会福祉に取り組んでいる財務省OB 全国盲ろう者協会 真砂靖理事長(元事務次官) #頑張れ大蔵省
社会福祉に取り組んでいる財務省OB 全国盲ろう者協会 真砂靖理事長(元事務次官) #頑張れ大蔵省
アマチュア財務省ウォッチャーを自称しておきながら、真砂元事務次官が現在、全国盲ろう者協会の理事長を勤めているとは初めて知りました。
というか、退官後も社会福祉活動に取り組んでいる財務官僚って初めて見た気が。
財務官僚と言えば、「社会保障の持続性が~」、「将来世代への負担が~」などの大義名分を振りかざすのが常ですが、よくよく考えると、真砂さんのように退官後も、社会福祉活動などに取り組んでいる人は見た記憶がないですね。
結局、「社会保障が~」も「将来世代への負担が~」も、お役所仕事の一環で、退官すれば、「知ったことではない」という事なんでしょうか。
たぶん、香川事務次官が存命だったら、何かしらの社会活動に従事されていたかもしれませんね・・・。
出来る事なら、こういう活動にこそ、元財務官僚という看板を活かしてもらいたいものです。
Action(活動) 週刊 経団連タイムス 2017年5月18日 No.3315
http://www.keidanren.or.jp/journal/times/2017/0518_11.html
コミュニケーションを通じた「心のバリアフリー」を-1%クラブ講演会を開催
開会あいさつで二宮会長は、福島教授が25年前に1%クラブで障がいのある人もボランティアの支援があれば孤立せず同じ世界につながれると述べていたことを紹介し、「誰一人取り残さない」ことを掲げる国連のSDGs(持続可能な開発目標)との目的の共通性を指摘した。そのうえで、すべての人がよりよい未来をつくるには、企業の「イノベーションの力」が重要だと述べた。
福島教授の講演の概要は次のとおり。
■ 盲ろう者とコミュニケーション
目と耳が不自由であることは、テレビに例えると、音と映像の両方が切断された状態だ。私が18歳で盲ろう者となった時、コミュニケーションが閉ざされたことが特にショックであった。相手の反応だけでなく、そこに人がいるのかどうかもわからず、世界のなかで自分だけが取り残されたような孤独を感じた。しかし、指点字というコミュニケーション手段を得たことで、再び他者とつながることができた。
盲ろう者は思いを発することが難しく、判断に必要な情報を得ることもできず、支援の網から漏れることもある。全国に盲ろう者が推定2万人いるとされているのに対し、国内唯一の支援組織である全国盲ろう者協会の登録者は1000人にすぎない。盲ろう者になった後に医学的に対処できることは限られているが、コミュニケーションを通じて人と結びつくことで、彼らの生活は豊かになる。
■ オリンピック・パラリンピックに向けたバリアフリー
コミュニケーションを取るうえで障壁がある点で、外国人と盲ろう者は共通している。
オリンピック・パラリンピック開催に向け、内閣官房の「ユニバーサルデザイン2020関係府省等連絡会議心のバリアフリー分科会」に有識者として参加した。私は、ハード面でのバリアフリーも重要だが「コミュニケーションのバリアを取り除き人と人がつながること」が重要だと考える。そのためには、各自が周囲の人とコミュニケーションが取れているか、職場や家庭、近所での対応をいま一度振り返ってみてほしい。日常の対応が洗練されれば、外国人とのふれあいにも活きてくるだろう。
◇◇◇
続いて、全国盲ろう者協会の真砂靖理事長が、盲ろう者や家族に対する相談や自立訓練支援、通訳・介助員養成、タイプライター貸出等、同協会が行う盲ろう者支援について説明を行うとともに、参加者に対し活動への協力を呼びかけた。
講演を受けて二宮会長は、福島教授がその著書で「絶望=苦悩-意味」というヴィクトール・フランクル(注)の公式を「意味=苦悩+希望」と変形し、希望があれば苦悩があっても生きる意味を見いだせるとしたこと、その一方で苦悩のなかで生きることはつらく、その理由を問いかけても沈黙が返ってくるだけと、かつて遠藤周作が代表作『沈黙』で記したことに触れ、コミュニケーションこそが生きる実感を得て苦悩と沈黙を乗り越える力になるのではないかと所感を語った。そのうえで、コミュニケーションが持つ深い意味をあらためて問い直したいと述べ、会合を締めくくった。
◇◇◇
全国盲ろう者協会の活動は会費や寄付に支えられている。協会に関する情報・問い合わせは同会ホームページ(http://www.jdba.or.jp/)を参照。
-理事長挨拶-
社会福祉法人全国盲ろう者協会
理事長 真砂 靖(まなご やすし)
全国盲ろう者協会が、盲ろう者支援のための通訳・介助員の養成や派遣事業などを行うことを目的として設立され、四半世紀が経ちました。この間、先人たちの弛まぬ努力により、視覚と聴覚の重複障害である「盲ろう」という言葉がようやく少しは知られるようになり、又、アメリカのヘレン・ケラー・ナショナルセンター(注)のような盲ろう者のためのセンターを我が国にも作るための調査研究も始まっています。
それでも、まだまだやるべきことが山積しています。協会に登録している盲ろう者は、約1,000名です。また、通訳・介助員のサービスを利用している盲ろう者も、全国で約1000名に過ぎません。協会が、身体障害者手帳に基づき行った平成24年度の調査によれば、視覚と聴覚の重複障害者は全国に少なくとも1万4000人という結果です。また、盲ろう者であっても、視覚と聴覚の両方の手帳を所持していない人もいるので、実態はもっと多いとも言われています。仮に、1万4000人を前提としても、一割未満の登録率であり、通訳・介助サービスの利用率です。もっと多くの盲ろう者が、コミュニケーションや移動の支援を得て、社会参加を進めていく必要があります。
協会は、有志の方々の会費・寄付によって支えられていますが、今の活動でも、赤字が発生しています。私は公務員時代、社会保障予算を担当したことがあります。社会保障予算は、最大の予算項目で、30兆円に上ります。にもかかわらず、本当に困っている分野には、その対象人数が少ないこともあってか、充分に光があたっていないのが実情です。
皆様のご理解とご協力が盲ろう者の生きることを支え、その社会参加を可能にします。
協会へのご支援をお願い申し上げます。
(注)有名なヘレン・ケラーは、視覚・聴覚の両方を失い、多くの場合発声も困難でした。そのすさまじいハンディを克服して、世界の障害者に夢と希望を、そして健常者に感動を与えました。その陰には、彼女自身の努力と才能もさることながら、サリバン先生の献身的な支えがありました。ヘレン・ケラー・ナショナルセンターは、皆でこのサリバン先生の役割を担おうと、アメリカに設立された盲ろう者の支援施設です。
(弁護士・元財務事務次官)
本が好き!書評PVランキング 『日本一やさしい天皇の講座』が週間PV第1位! #本が好き #チャンネルくらら #倉山満
『日本一やさしい天皇の講座 倉山満著』のランキング、紹介記事まとめ #倉山満 #扶桑社 #譲位 #皇室
『日本一やさしい天皇の講座 倉山満著』
二百年に一度の「譲位」という一大事に、真摯に向き合うための必読の書!
~ランキング、紹介記事まとめ~
1.日本最大級の電子書籍ストアeBookJapan
ビジネスランキング第4位!
2.紀伊国屋書店 教養・新書・選書 スタッフのイチオシ
3.kinjitsuhatsubai.net
人気の社会・歴史関連書籍
http://kinjitsuhatsubai.net/society/lastweek
【書評】
yumikwさんの書評
倉山満 日本一やさしい天皇の講座 感想
拙書評
天皇(すめらみこと)にみる真の保守の姿
『日本一やさしい天皇の講座』書評 #本が好き
『梧陰存稿 言霊』を読む~我が国の憲法 五色を“しらす”天皇(すめらみこと)#井上毅 #梧陰存稿 #しらす #うしはく #倉山満 #江崎道朗
『梧陰存稿 言霊』を読む~我が国の憲法 五色を“しらす”天皇(すめらみこと)
『言霊』
本論文は『皇典講究所講演録』第二巻(明治23年3月1日刊)に「古言」と題して収録。のちに『教育時論』第360号付録「梧陰先生遺文」(明治28年4月15日刊)に収録。
大日本帝国憲法 第一条
「統治す」とされてますが、井上毅が作成した憲法草案においては、「しらす」とされていました。
『帝国憲法物語』(倉山満著)によれば、当時においても、すでに人々にとって馴染みのない言葉となっており、このため「統治す」という言葉が採用されたそうです。
憲法義解でも「統治す」とは「しらす」に他ならないと解説が加えられていますが、「しらす」は、さらに支配、領有を意味する「うしはく」に対する語であることが梧陰存稿収録の『言霊』でも述べられています。
「うしはく」を現代風に言えば、「占領している」とか、「占有している」というのが適切なのではないでしょうか。
そこには暗に物質的な力(武力)による上からの抑えつけという概念が通底していると言えます。
では「しらす」という言葉それ自体が直接的に指す意味とは何なのでしょうか。
「統治」という言葉すら、現在においては「まとめおさめること。特に、主権者がその国土・人民を支配し、おさめること」とされており、これでは、井上毅が「玉と石ほど違う」と指摘した「しらす」と「うしはく」の明確な違いが伝わらないような気がします。
「しらす」の意味を考えてみたところ、同じく梧陰存稿に収録されている『五倫と生理との関係』で述べられている比喩が目に留まりました。
『個人の生活と五倫の関係とは例えば、目と色のようなものである。
色がなければ目はその役割を果たせない。暗室に閉じ込められて五色を見させられたところで、その色は見えはしない』
(by「五倫と生理との関係」より)
人が元来備えている素晴らしい特性、すなわち五倫を“色”に例えたならば、暗室に日の光を行き届かせ、“五色”のありのままの美しさを“知らす”ところに、“しらす”の本義があるとも言えるのではないでしょうか。
倉山満先生の『日本一やさしい天皇の講座』や『日本人として知っておきたい皇室のこと』に掲載の江崎道朗先生の論を読みながら、こんなことを考えてみました。
梧陰存稿、本当に味わい深いです。
『梧陰存稿 言霊』(意訳)
■言霊
古い言葉を吟味するということは一つの歴史学である。いずれの国であっても太古の歴史は曖昧であって当時の思想や風俗は文字で残っている伝記のみであって知ることが困難であることが多いが、古くから伝わる言葉は古の人の風俗・思想をそのまま後の世に伝えて、遥か未来から古へと遡って当時の様子を想像させる。
ならば古言を取り調べることは歴史学の一つとして数える価値があるといえる。
そもそも「言霊の幸はふ国」と称えられる我が国の古言には様々な尊きことが述べられている中に、私はこの上なく素晴らしい言葉を見つけた。
土地と人という2つの原資を備えた国を支配する所作を称える言葉は、国々によって様々だが、支那では国を有(も)つと言う。有つとは、我が物にして、我が領分であり、手に入れる心であって、一般に、ある屋敷を手に入れた、或いは、ある山を我が物にしたと言う時と同じ言葉である。
詩経に奄有天下とあり、奄有とは「覆いかぶせて手に入れる心」であって、天下は広大なものであるから、このように称したのであろうと思われる。
これは、領土、国民をモノのように一つの私財とみなすものであって、『中庸』においては富有天下ともいう。
一人が天下を私物にするとは穏やかならぬ言葉であるが、支那の聖人はこの言葉を修飾するために、「有天下而不興というが、不興ということと有つということは、一句の中にあって意味の矛盾があるものだ」と述べている。
その後、政治思想が発達して、治国又経国などという言葉を用いるに至ったが、この治るといい、経すというのは乱れた糸のひとつひとつを揃える心であって、多少は精緻な文字であるとはいっても、それでももっぱら物質上の考えにもとづいて成り立っているものである。
また人民に対してはどのような言葉を用いているかというと民を御すと言い、または民を牧すという。御すとは馬を使い、牧すとは羊を飼うことであって、これは人民を馬羊のように捉えていた太古未開の時代の一般的な思想をそのまま反映したものである。
ヨーロッパでは国土を手に入れることを何というかと問うてみると、国を占領すと言うらしい。占領という言葉は<オキュパイド>、そっくりそのまま奪うという意味をも含んでいる。また人民に対しては<ゴーウルメ>、船の舵をとるという意味の言葉を使っている。支那で御す、牧すと言ったのと同じで、人民を一つのモノとみなすところから転じたものである。
支那も西欧諸国も、昔の人の国土、人民に対する言葉は、まったく粗雑な言葉を用いたものである。国土を縄張りにして、自分の領分とするという事を目的とし、人民をひとつのモノとみて、手綱をつけ舵をとって、乗り治めるというあしらいで、こういう言葉を使ったものと思われる。これは、(これらの国の)古の人は、現代のように政治学の精密な思想がなかったからであろう。
さて、我が日本は、この国土人民を支配することの思想をなんと言っているか。
「古事記」に健御雷神をお下しになって、大国主神をおたずねになられた場面では「いましのうしはける葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国ぞといよさしたまひき」とある。
「うしはく」といい、「しらす」というこの二つの詞をもって、太古に「人主の国土人民に対する働き」を名付けたものであった。
一方では「うしはく」と言い、もう一方では「しらす」と言うからには、二つの間に差があったに違いない。大国主神については「汝がうしはける」とのりたまひ、御子のためには「しらす」とのりたまうたのは、この二つの詞に、雲泥の差があったからだと思われる。
「うしはく」という言葉は、本居宣長の解釈に従うと、すなわち「領す」ということで、ヨーロッパ人が“オキュパイド”、と言い、支那人が“富有”、“奄有”と言うのと全く同じ意味である。これは、いち土豪の所作であって、土地人民を自分の私財として取り入れていた大国主神のしわざを表したものであるにちがいない。
正統の皇孫として、御国を照らし臨み玉ふ大御業は「うしはく」ではなく「しらす」と仰せられたのである。
その後、神武天皇の御称名を始国馭天皇(はつくにしらすすめらみこと)と申し上げ、また代々のご詔勅に大八洲国知ろしめす天皇ととなえ奉ることを、公文式となされたのである。
畏れ多いことだが、皇祖伝来の御家法は「しらす」という言葉にあると言っても過言ではない。
国を知り、国を知らすというのは、各国に比較することのできる言葉がない。今、国を知り、国を知らすということをそのまま、支那、西洋の人々に聞かせたならば、その意味を理解できないだろう。
それは、支那、西洋の人々には国を知り、国を知らすということの示す意味合いが、元来、その脳髄の中に存在しないからである。
「知る」ということは、今の人々が普通に使う言葉のように「心で物を知る」という意味であって、内なる心と外たるものの関係を表し、内なる心は外のものに臨んで、鏡がものを照らすように「知り明からむ」という意味である。
西洋の論理法に従って解釈すれば主観的に無形の高尚なる性霊心識の働きを表したものである。古書で、「しらす」という言葉に「御」の字を当てたのは、当時の歴史を編纂した人が、適当な漢字が無いのに苦しんで、この字を借用したのであって、元来「知らす」という日本語の意味には適しない文字である。
こういうと、古の人にそれほど高尚な思想があるはずがないと非難する人もいるだろう。
そうはいっても諺に論より証拠とあるように、古典に「うしはく」と「しらす」と二つの詞を対比する形で使っている。また、「うしはく」と「しらす」という言葉の主格(健御雷神と大国主神)との間に玉と石との差があることを見れば、なおのこと議論の余地はない。
もし、違いがないのだとしたら、この一文を何と解釈することができるのか。
故に支那、ヨーロッパでは一人の豪傑が興起して、多くの土地を占領し、一の政府を立てて支配した征服の結果を国家と解釈することができるが、わが国の天つ日嗣の大御業の源は、皇祖の御心の鏡をもって、天の下の民草を「しろしめす」という意義から成り立つものである。かかる次第であるから、わが国の国家成立の原理は、君民の約束ではなく、一の君徳である。「国家の始まりは君徳に基づく」という一句は、日本国家学の開巻第一に説くべき定説である。
我が国の建国の原理は国知らすということである。その原理によって種々の素晴らしい成果をもたらした。
第一はヨーロッパの国々の歴史上の状態を尋ねるに大方の国は一人の豪傑が占領したものであって大いなる“個人財産”である。故に、国を支配することは民法上の思想に基づき、一つの財産をあしらいもって領分とし、その人々がこの世を去るときには民法上の相続を行い、子が三人いれば、その国を3つに分けてしまうのである。
彼の歴史上に名高いシャーレマン帝はその莫大なる版図を三人の子に分けたことで、一つはドイツとなり、一つはフランスとなり、一つはスペインとなった。
この相続がヨーロッパ大陸の大乱の種を蒔いたと言えるのではないか。
モンゴルの相続法も同様であって、元の大祖は広大なるアジアの土地を4人の子に分けて支那の一部、モンゴルの一部、インドの一部、ペルシャの一部と切れ切れにしたことは歴史にみえることだ。
これはヨーロッパでは珍しくないことで二百年前まで行われていたが、オーストリア帝の諸邦各国との条約に一国を相続するのは一統の子孫に傳えるべきものにして幾多の子孫に分割すべきものにあらずということを初めて約定した。
これを彼の国の学者は学理様に主張して古は私法と公法との区別を知らず、国と家との区別を知らず、家の財産相続法を以て国土の相続に混同していたものであるなどと言っている。
我が国では公法私法などという学理論の有無に拘わらず、建国のおのずからの道において天日嗣の一筋なることは自然に定まっており、二千五百年前より、この大義を誤ったことがない。神武天皇の御子は4人いらっしゃったが、嫡出の綏靖天皇に御位をお譲りになられて他の3人の皇子たちには国土を分け与えることもしなかった。
ヨーロッパ人が二百年前に辛うじて発明した公法の区別は、我が国には太古より明確に定まっていたことで、皇道の本質であると言える。これは何故かといえば即ち我が国をしらすという大御業は、国土を占領することと、おのずから公私の違いがあるからである。
第二にヨーロッパにおいては古の君臨の事業を一人の私物私法としてみなすが故に君位・君職に関する経費については君主個人のもとに財産が集まることで、その費用を支出していたが、その後国費がかさむにしたがって、はじめて人民に調達金を命じ、金銭を献納させ、主君の領地からの歳入不足を補った。
これがヨーロッパの租税の始まりである。
今も現にドイツの中の小国には、君主の家の歳入が不足するにいたって、はじめて徴税ということを法律にした国さえある。
我が国の君道はこのような狭い道ではなく、国知らすという一大道理であることは最初から明らかであるため、君位君職に関する経費は全国に分け、負担させて、人民の義務として納めることとした。
ヨーロッパの租税は元来、約束承諾によって成立したものであり、我が国の租税は君徳君職のもとで暮らす人民の義務であると言える。
以上のように述べた東西の間の違いは何がそうさせたのかといえば、これは偶然の結果ではない。いずれの国の歴史も千年の後の変遷は千年の昔に生じているものである。
私は太古の歴史を歩いて、こじつけの説をつくることを好むものではない。
とはいえ、この国を「うしはく」といい、「知らす」ということの違いに至っては、作り話ではないことは明文事実であり、また二千五百年来の歴史上の結果が証明し、他の国と全く雲泥の違いがあることは誰一人として否定できないだろう。
そもそも我が国の万世一系は畏れ多くも学問のように論ずべきものではないとはいえ、その最初に必ず一つの原因があることに疑いはない。
いま、何度もいうようで恐縮だが、最後に一言、結論を言わずにはおれない。
畏れ多くも我が国の憲法はヨーロッパの憲法の写しにあらずして即遠つ皇祖の不文憲法の今日に発達したものである。
(関連記事)
天皇(すめらみこと)にみる真の保守の姿
『日本一やさしい天皇の講座』書評
『日本一やさしい天皇の講座』書評 天皇(すめらみこと)にみる真の保守の姿 #倉山満 #チャンネルくらら #皇室 #譲位
『日本一やさしい天皇の講座』書評
天皇(すめらみこと)にみる真の保守の姿
『嘘だらけシリーズ』でおなじみの憲政史家、倉山満先生の著書にして『保守の心得』、『帝国憲法の真実』に続く“保守三部作”、堂々の完結編。
神武天皇以来の皇室の歴史を辿りながら、天皇の役割は「秩序を回復することにある」と喝破し、歴代天皇がいかに日本を“保守”してきたかを明らかにした一冊と言えます。
■絶望の先の一筋の光
その切れ味鋭い語り口から絶大な人気を誇る倉山先生ですが、実はその著書の“あとがき”は暗澹たる思いを感じさせるものが多いです。
(以下参照)
「我々は恥ずかしい時代を生きている。日本建国より初めて外国軍隊に占領され、その押し付けてきた憲法を押し戴いている。これを先祖と後世に恥じることが、自主独立の国になる第一歩である。」
(by帝国憲法物語)
「敗戦から七十年。実に空しい改憲論議を続けてきた。日本はいつまで敗戦国のままなのか!?戦後七十年がすぎたが、このままだと七百年、七千年たっても、日本は敗戦国のままだろう。」
(by『日本国憲法を改正できない8つの理由』)
「われわれ日本人は、人類全体に対する罪を自覚すべきだろう。われわれ大日本帝国は、世界史で最も模範的な文明国であった。しょせんはヨーロッパの公法にすぎなかったInternational Lawを、正しい意味での国際法とした。それにもかかわらず、世界大戦における愚かなふるまいにより、大国の地位から滑り落ちてしまった。それどころか、地球の地図に国名ではなく、単なる地名としてのみ残る小国に転落してしまった。」
(by『国際法で読み解く世界史の真実』)
「今の日本は、国名ではなく地名にすぎないのです。地政学でいう、アクターではなくシアターです。アクターには「主体」という意味もあります。では、我が国が主体を持つのはいつの日でしょうか。
予想をしていても、そんな日は永遠に来ないでしょう。」
(by『世界一わかりやすい地政学の本』より)
(参照終わり)
なぜか。
それは、俗に「保守」と呼ばれる人たちのあまりの不甲斐なさに絶望してきたからだそうです。
また、同時に今の日本政府の現状にも不甲斐なさを感じていたからに他なりません。
アメリカの持ち物にされるどころか、中国やロシア、あまつさえダブルコリアにすら小突き回される。軍事力を失い、政治もダメ、教育もダメ、唯一の取柄だった経済も停滞中。
「無いもの尽くしではないか」という倉山満先生の表現に首肯する人は少なくないのではないでしょうか。
そんな中にあって、日本に1つだけ残されていた希望がある、それこそが「天皇陛下」なのだと倉山先生は指摘されます。
■今上陛下のお姿にみる真の保守
「体制からはじき出され、石を投げられたとしても、日本国を愛しながら死んでいく。私はそこに真の意味での保守の姿をみる。
そもそも、今の日本国の体制と、日本国そのものは違う。このことを指摘した思想家が敗戦後どれほどいただろうか。」
これは、『この国を滅ぼさないための重要な結論』のあとがきで述べられている言葉です。
そもそもは”保守“を自称する言論人に向けて発せられた言葉であり、”右上とは何たるか“を指し示すために書かれたものです。
ですが、ここで述べられている“右上保守”の姿が今の今上陛下のお姿と重なって見えるのは気のせいでしょうか。
陛下ほど、悪口雑言を浴びせられた天皇がいたでしょうか。幼いころより外国かぶれと陰口を叩かれ、昭和時代は頼りないとの悪評、即位されてからは左翼の天皇呼ばわり。
それでも陛下は国民をお見捨てにならなかった。
『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』にもそれが凝縮されていますが、それだけではありません。
今上陛下の人生は「天皇の役目を果たす」こと、その一点にのみ捧げられてきたものであると言って過言ではありません。
確かに歴代天皇も多くの場面で、天皇としての役割(秩序を回復する)を果たしてこられましたが、今上陛下ほど、人生を賭してその役割に真摯に向き合い続けて下さった天皇も数少ないのではないでしょうか。
今上陛下がいかに国と国民に尽くすために、その人生を捧げてこられたのか、『日本人として知っておきたい皇室のこと』に詳しく描かれています。
本書『日本一やさしい天皇の講座』と『日本人として知っておきたい皇室のこと』を併せて読むことで、陛下がいかに国民を大事に思っているのか、皇室の存在が日本にとって、国民にとって、いかに必要不可欠なものであるのかということを“心で感じる”ことが出来るのではないでしょうか。
二百年に一度の「譲位」という一大事に、真摯に向き合うためにも必読の書と言えます。
おススメです!
為参考:『日本人として知っておきたい皇室のこと』収録
「変質した政府との戦い」
■変質した政府との戦い
GHQによる「皇室」解体政策の悪影響は、戦後まもなく大学において顕著に現れるようなった。よく知られているように、六〇年安保から七〇年安保の時代に学園紛争が吹き荒れ、全国の大学は左翼全学連によって席巻された。大学は急激に左翼化し、「天皇制」を打倒し社会主義革命を夢見る勢力が台頭するようになった。
一方、政権与党の自民党はロッキード事件に代表される汚職によって世論の批判を受け、昭和四十九年七月の参議院選挙で敗北し、社会党と自民党の勢力が拮抗する保革伯仲時代が到来する。
並行して学生運動出身者たちがマスコミや政府、大学に入り込み、「保守の顔」をして政府を動かすようになる。その影響を受けて政府の左傾化が始まるが、象徴的なのは昭和五十二年七月二十三日、文部省は学校教育の基準である「小・中学校学習指導要領」を全面改訂した際、ゆとり教育を導入する一方で、教育内容を精選するという名目で、「天皇についての理解と敬愛の念を深める」などの字句を削除したことである。
恐らく教育課程の改悪を念頭に置かれてのことだろう。その年の十二月、陛下は次のようにお述べになり、浩宮陛下と共に歴代天皇の歴史を学ぶご意向を示されたのである。
これは皆で考えた問題ですけれども、天皇の歴史というものを、その事実というか、そういったものを知ることによって、自分自身の中に、皇族はどうあるべきかということが、次第に形作られてくるのではないかと期待しているわけであります。
(昭和五十二年、お誕生日前の記者会見)
心ある国民もまた、政府の「変質」を憂慮していた。皇室を支える仕組みを民間の手で立て直しすべきだという意見が続出し、昭和五十二年頃から元号法制化運動が起こるのである。「このままでは次の元号は制定されなくなってしまうが、それでいいのか」という訴えは広範な支持を獲得し、昭和五十三年に「元号法制化実現国民会議」(議長、石田和外元最高裁長官)が結成され、翌昭和五十四年六月六日、元号法が成立するのである。
危機感を抱いた社会党は、元号法を契機に皇室制度が再建されていくことを阻止すべく執拗に政府を追求した。なんとその追及に政府は屈してしまうのである。
昭和五十四年四月十七日、衆議院内閣委員会において社会党の上田卓三議員は「今回、この改元が元号法制化によって法律的に根拠づけられようとしているわけでありますが、改元の問題を皇位継承という一連の流れの一環として見た場合に、旧皇室典範に記されているような践祚、大嘗祭といった儀礼はどのような扱いになるのか」と質問した。
これに対して真田秀夫内閣法制局長官は「大嘗祭なんというのは恐らく国事行為としても無理なのじゃないかと思う」「憲法二十条第三項の規定がございますので、そういう神式のもとにおいて国が大嘗祭という儀式を行なうことは許されないというふうに考えております。」と回答した。
大嘗祭とは、皇位を継承するにあたって、その年の稲穂を神々にお供えし、国家の安泰と国民の安寧を祈念される最も重要な儀式である。こともあろうに内閣法制局長官がその儀式を「行うことは許されない」と断言したのである。
その二年後の昭和五十六年、皇后陛下は「戦後生まれの世代が国民の過半数を占める時代になりましたが、今後皇室の在り方は変わってゆくとお考えですか」という質問に、次のようにお答えになった。
時代の流れとともに、形の上ではいろいろな変化があるでしょうが、私は本質的には変わらないと思います。歴代の天皇方が、まずご自身のお心の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらしたと思います。
その伝統を踏まえる限り、どんな時代でも皇室の姿というものに変わりはないと思います。
(昭和五十六年、お誕生日前の記者会見)
いかに時代が変わろうとも、政府が社会党の追求に屈しようとも、宮中祭祀において「歴代の天皇方が、まずご自身の清明ということを目指されて、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらした」伝統を踏まえていくとのご決意を、皇后陛下は明確に示されたのである。
■戦後憲法下での「大嘗祭」
しかし、政府による「皇室の伝統」軽視の傾向は止まらず、宮内庁は昭和五十七年、ご高齢を理由に昭和天皇がお出ましの祭祀を四つ(春季・秋季皇霊祭、神嘗祭、新嘗祭)に制限してしまう。一連の政府の対応を受けて天皇陛下は、昭和六十一年五月二十六日付「読売新聞」に掲載された文書回答で次のようにお述べになった。
天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場
にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このこと
は、疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神
や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書によっても表されていると思います。
ここで注目しなければならないことは、「後奈良天皇」について言及されていることだ。一四六七年に起こった応仁の乱を契機に室町幕府は衰え、戦国武将による群雄割拠の時代が始まる。それは同時に、皇室を支える経済体制の弱体化も意味した。
一五二六年に三十一歳で皇位を継承された後奈良天皇は一五三六年、践祚後十年目にして戦国大名の寄進で即位式をようやく実施できたが、費用のかかる大嘗祭を同時に行うことはできなかった。当時の文献によれば、皇居の土堀は崩れ、庶民らは三条大橋の上から内侍所(現在の皇居・賢所)の燈火が見えたほど困窮は甚だしかったという。
それだけに一五四〇年から四五年にかけて疫病が蔓延した際には何もできないご自分を責められ、御自ら「般若心経」を書写されて全国二五箇所の一宮に奉納された。そして、一五五七年、大嘗祭を挙行されないまま、後奈良天皇は崩御されてしまう。
このように苦労された後奈良天皇について言及された背景には、畏れ多いことながら、ご自分も後奈良天皇のように政府の支援を得られず大嘗祭を挙行できないかも知れないが、それでも国民の安寧を祈り続けていくという悲壮なるご覚悟があられたのではないか、と思わざるを得ない。何しろ内閣法制局長官が「国が大嘗祭という儀式を行なうことは許されない」と明言していた時である。
昭和六十二年九月二十二日、昭和天皇は腸通過障害で手術をされ、念願であった沖縄ご訪問は中止となった。翌六十三年九月十九日、昭和天皇は再びご不例となり、昭和六十四年一月七日、ついに崩御された。
直ちに皇位を継承された陛下がまず直面されたのは、占領政策に屈し、皇室の伝統を歪めようとする政府であった。政府は、昭和天皇のご葬儀を行うにあたって憲法の政教分離条項がある以上、皇室の伝統を歪めることもやむなしという判断を下そうとしていたのである。
危機感を抱いた「日本を守る国民会議」の黛敏郎運営委員長らが一月二十四日、竹下首相と会見し、ご葬儀は皇室の伝統に基づいて行われるように強く要望した。最終的に皇室行事の「葬場殿の儀」において当初予定されていなかった鳥居と大真榊が設置されることとなったものの、国家行事の「大喪の礼」において鳥居は撤去されるという事態になった。
この間、憲法によって国政に関する発言権を奪われた陛下は父君・昭和天皇のご葬儀であるにもかかわらず、何ら発言することができなかった。
昭和天皇のご葬儀と並行して大嘗祭のあり方についても、憲法の政教分離条項との関連で議論になった。「即位の礼準備委員会」を設立し、現行憲法下での皇位継承儀礼について検討を進める政府に対して、神道政治連盟など民間有志による「大嘗祭の伝統を守る国民委員会」が約六〇〇万名の嘆願署名を集め、「即位の礼、大嘗祭が国家の儀式として伝統に則り斎行される」よう要望した。
この要望を踏まえ十二月二十一日、政府の「即位の礼準備委員会」は、大嘗祭について「宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定できない」としながら「皇位の世襲制をとる憲法下では国も深い関心を持たざるを得ない」とその公的性格を認めた。政府は、皇室の伝統に基づいて「公的行事」として大嘗祭を挙行することを決定したのである。
戦後憲法体制下において多くの制約を課せられたものの、皇室の伝統を継承できたことがいかに大きなことであったのか。天皇陛下は「(平成の十九年間を)振り返ってみて、今まで直面した最も厳しい挑戦や期待はどのようなものでしたか」という質問に対して、次のようにお答えになっている。
振り返ると、即位の時期が最も厳しい時期であったかと思います。日本国憲法の下で行われた初めての即位にかかわる諸行事で、様々な議論が行われました。即位の礼は、皇居で各国元首を始めとする多くの賓客の参列の下に行われ、大嘗祭も皇居の東御苑で滞りなく行われました。これらの諸行事に携わった多くの人々に深く感謝しています。
(平成十九年、欧州ご訪問前の記者会見)
即位の礼・大嘗祭を行うことができた喜びがこのご発言から窺われるが、それは、誠に申し訳ないことながら、それだけ戦後憲法体制と、そのもとで変質した政府によって「厳しい時期」を強いられてきたということでもあると言えよう。
■皇室の伝統を踏まえた憲法解釈
平成の御代に入ると、皇室の伝統を重んじられる陛下の御心を無視するかのようにマスコミは「開かれた皇室」論をしきりに喧伝し、昭和天皇との断絶を強調するようになった。とくに天皇陛下が平成元年一月九日の「即位後朝見の儀」でのお言葉の中に「日本国憲法を守り」という一節があったことから、『朝日新聞』などが、平成の天皇は「護憲」であり、「改憲派は天皇陛下のご意志に背いて改憲を進めるのか」という論調で記事を書き始めた。
この「護憲天皇」という主張に過敏に反応して今度は保守系の一部からも「いまの天皇陛下は護憲で、リベラルだ」といった批判が出て来るようになった。
現行憲法の規定を読めば分かるように、天皇の立場で憲法を批判するわけにはいかない。
さりとて何もおっしゃらなければ社会党のような意味での「護憲」論者とみなされかねない難しい立場に追い込まれてしまったのである。
追い討ちをかけたのは、『朝日新聞』をはじめとするマスコミだった。お誕生日前に行われる記者会見において記者たちは、「昭和の時代と比べて天皇としての活動のあり方も変わってきたようにお見受け致しますが、ご自身では、どんな点をどのような思いから変えてきたとお考えでしょうか。さらに今後、国民の期待をどう受け止め、どのような形でこたえていきたいとお考えでしょうか」といった質問を毎年のように繰り返した。そこには、「平成の天皇陛下は、昭和天皇のスタイルを変えようとする伝統軽視の護憲リベラルだ」というレッテルを張ろうという悪意が透けてみえる。
陛下はこうした質問に対してあくまでも誠実に、しかし妙な言質をとられることのないように慎重な言い回しでお答えになっている。
日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。
私は、昭和天皇のお気持ちを引き継ぎ、国と社会の要請、国民の期待にこたえ、国民と心を共にするよう努めつつ、天皇の務めを果たしていきたいと考えています。
(平成十年、お誕生日前の記者会見)
このご回答を丁寧に拝読すると、現行憲法には「日本国民統合の象徴」としか書かれていないが、その意味を長い「天皇の歴史」を念頭に置いて解釈した場合、「国と国民のために尽くすことが天皇の務め」であり、「昭和天皇のお気持ちを引き継」ぐことにもなるとおっしゃられていることが判る。
つまり、現行憲法を正面から批判するのではなく、「国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史」に基づいて憲法の「象徴」規定を解釈することで、「象徴」たる天皇の務めとは「国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすこと」だという皇室像を打ち出されている。
「現行憲法を守るならば、戦前の歴史を否定し、昭和天皇と異なる『開かれた皇室』を目指すべきだ」というマスコミの追求に対して、「象徴」規定に基づいて皇室の伝統を守る憲法解釈を示されたのである。
陛下は昭和五十年代に自ら望まれて、最高裁の田中二郎元判事から憲法の運用・解釈について学んでいらっしゃる。田中元判事は昭和二十一年から二十二年にかけて教育基本法を制定した際、GHQと交渉した経験を持つ専門家だ。「皇室解体」というGHQの意図が込められた戦後憲法体制下で、皇室の伝統を受け継ぐという「困難な道」を天皇として歩まなければならない―そのご決意を貫くため、陛下は周到な準備をされていたことを、田中元判事との勉強会は物語っているのではないだろうか。