『梧陰存稿 国語教育』を読む 嵯峨天皇と勢の効力~文章は事績の記録か、言葉以上の”何か”か~

『梧陰存稿 国語教育』を読む

嵯峨天皇と勢の効力~文章は事績の記録か、言葉以上の”何か”か~

  

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■梧陰存稿 国語教育

明治26年8月6日に開かれた尋常中学校尋常師範学校教員講習会講演を文語体に改め補筆したもの。『官報』第3035号(8月10号)木村匤『井上毅君教育事業小史』(明治28年1月)に口語速記が収録されています。

 

井上毅のド正論

同じく梧陰存稿収録の『人に自尊自卑の性あるの説』でも奈良・平安時代に漢文漢詩が盛んに取り入れられた様を取り上げ、批判していましたが、ここではさらに口を極めて非難しています。(一応、申し訳程度に「漢字は国語の良友である」と付け加えていますが)

 

井上毅の主張、即ち

「語源語法を異にする漢文と国語とは、行き着くところ相合一すべきではなかった。

奈良・平安時代に無理にそれを行おうとしたことで、我が国の国文国語は大きく毀損し、発達が阻害された。

また漢文が主流となったことで、学芸百般を習得するためには、まずは漢文を学ばなければならなかったという状況は、多大なエネルギー、時間の浪費をもたらした。

その結果、我が国の文明の発達も著しく停滞してしまった」

との指摘は、ぐうの音も出ないほどの正論であろうと思われます。

 

嵯峨天皇と書画・漢詩

『国語教育』においてその名が挙げられているわけではありませんが、奈良・平安時代に特に唐風文化、漢詩・漢文の導入に多大な影響を及ぼした人物として嵯峨天皇は無視できないのではないでしょうか。

嵯峨天皇は当時の唐の文化を取り入れることに熱心であり、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の3つの勅撰集はいずれも嵯峨天皇の勅命により編纂され、「勅撰三集」とも呼ばれているそうです。

また、嵯峨天皇自身、空海橘逸勢らとともに“三筆”に数えられるほどの書の名人であったと言われています。

 

嵯峨天皇文人官僚』においては極めて優れた政治を行い、「統治(しら)すれども支配(うしはく)せず」を体現していた嵯峨天皇も、井上毅の言説を踏まえるのであれば、やはり全てにおいて完璧というわけではなかったという事になるのでしょうか。

 

井上毅の主張はまったくの正論であることを前提に、素人考えながら、少し別の角度の視点も考えてみたいと思います。

 

※『嵯峨天皇文人官僚』の書評はコチラ

詩と書を愛した偉大な名君 ~統治(しら)すれども支配(うしはく)せず。

ウィキペディアに載らない“象徴天皇の源流“~ 

書評『嵯峨天皇文人官僚』

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■書画における“勢”のダイナミズム

例えば、中国における書・漢詩とは、単なる事績の記録、言葉の書き起こしではなく、”書画”という作品しての側面も有していると言えます。

 

フランソワ・ジュリアン著勢 効力の歴史によれば、書画、兵法、風水、武術など中国文化を通底する鍵概念として“勢の論理”と呼ばれるものが存在しているのだそうです。

 

では“勢の論理”とは、どういうものなのか。

例えば、「孫子の兵法 兵勢編」の一句「善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責めず。」などで用いられれる“勢”とは、「勢い」「波に乗ること」と解説されることが多いようです。

 

ですが、本当の“勢”とは「勢い」「波に乗る」などと言った表層的な言葉ではなく、

「効力 efficacite 」すなわち「配置 dispositionから出てくる力

であり、

「戦場での軍隊の配置、書の文字や描かれた風景が示す配置、文学の諸記号が作り上げる配置等々の、形状の中に働く潜勢力という主題」

であり、

「政治においては君臣、美的表象においては上下、宇宙的原理としては天地等々の、 機能的な両極性という主題」

であり、

「戦争の推移や作品の展開、歴史状況や現実のプロセスといった、単なる相互作用から自然に生み出され交替しながら進展する趨勢という主題」

であり、

「一切の現実を、布置dispositifとして捉えた上で、その布置に依拠し、それを働かせる必要があるという直観」

であり

布置から発する勢い propensionを戦略的に利用して最大の効果を生むようにという発想である」

とされています。

このように複数の主題を内包する言葉が“勢”なのだそうです。

そして、書法は特に“勢”のダイナミズム、すなわち“形状の中に働くダイナミズム”を直接的にモデルにしており、

「蓋し書は形の学なればなり。形あらば則ち勢あり。……勢の便を得れば則ち已に勝算を操とる。」

「兵に常陣無く、字に常体無し」

であるとされています。

 

また詩文に関しては、六朝時代(5世紀末)に現れた文芸理論書『文心龍』に治められている「定勢」と命名された一篇(第30章)において、詩文は「勢」が文学的形象として体現(現実化)したものとする根本哲学から発し、体に即きて勢を成すものと説かれるのだそうです。

 

フランソワ・ジュリアン著勢 効力の歴史

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嵯峨天皇の施政にみる、“勢の論理” ~臣籍降下と皇室~

上述したように嵯峨天皇空海橘逸勢らとともに“三筆”に数えられる書の達人でした。

であるならば、嵯峨天皇自身が書を通じて“勢の論理”を体得しており、それを施政に活用していたと考えても不思議ではないと言えるのではないでしょうか。

 

『日本一やさしい天皇の講座』(倉山満著)によると、嵯峨天皇は「ニ所朝廷」と呼ばれた当時の状況を是正し、「都は平安京ただ一つの原則」を打ち出しました。(この原則は明治時代まで続きます)

 

また、嵯峨天皇は財政難を理由に、多くの皇子たちを臣籍降下させたと言われています(嵯峨源氏)。しかしながら、臣籍降下を行ったことにより、嵯峨源氏が皇族を補完する勢力として存在していたことが、藤原摂関政治による皇室乗っ取りの抑止効果を発揮し、皇室の安定化に繋がったと指摘されています。(『日本一やさしい天皇の講座』より)

 

いずれも嵯峨天皇自身が“勢”すなわち“配置がもたらす効力”を知り抜いていたからこそ実現できた業績のように思えてなりません。

 

※『日本一やさしい天皇の講座』の書評はコチラ

天皇(すめらみこと)にみる真の保守の姿 『日本一やさしい天皇講座/倉山満/扶桑社』

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■文章は事績の記録か、言葉以上の“何か”か

確かに文章を事績の記録、語り言葉を文字に起こしたものと捉えるならば、井上毅の指摘はまさしくその通りであると言えます。

 

ですか、上記のように文字・文章を、書あるいは詩文と捉え、そこに内包される、言葉以上の何か、すなわち“勢の効力”の存在を見い出すのであれば、奈良・平安期に推し進められた中国文化の取り入れも、あながち頭ごなしには批判できないのではないでしょうか。

 

井上毅の主張が正論であることは論を待たないものの、ちょうど『嵯峨天皇文人官僚』、『日本一やさしい天皇の講座』を読んでいたこともあり、素人の浅学ながら、上記のような反論を試みてみました。

※全くもって“後付けの解釈”であり、“事実誤認”も多分に含まれていると思われます。どうぞご容赦下さい。

   

国語教育(意訳)

我が国語国文は、今は何の支障もなく、かつ幾多の補助材料さえ得て十分発達し得るべき時運に至った。中古以来の経験によれば漢文は結局わが国民に適用すべきではない。

そもそも言語と文章とはその系統脈絡が同じでなければならない。

漢文は我が言語とその淵源を一としない。語法語脈が互い相一致しないのであればわが国民一般の使用に応えることができないのもまた不思議なことではない。

 

果たしてしからば、わが国民は各自の思想を表明し、また往来させるためには我が固有の国語及びその国語に生じた普通の国文をおいてほかにない。

 

国語国文の使用が既に確定しているときは従って教育上、国語国文のために与えられる位置はどのようなものかという問題を講究しなければならない。

 

万物の霊として人類の叡大知能は言語及び文字をもって各自の意思を表明し、これを他人に通知し、これを遠近に伝播し、これを後世に残すことにある。

これを史誌に著すに国語国文が十分に発達し、人々その意思を表明するの材料に富たる国は一国の文明を従えて隆盛に赴き、国民の知識は年を経て、世の中を追って進歩するのは自然の結果とならないわけがない。

 

そのうえ、国語国文の発達した国はこの原理に帰るが故に、文明世界に国を立たせるものは各々、その自国の言語文章を尊重し、これを普通教育の宛先におき、これに最も長い時間をかけて学習させる。

 

このため普通教育を卒業した者は全て日用往復通信の言語文字を適切に使用するにおいて差し支えなく、さらに高等教育を卒業した者は、概ねその論著する所に富み、観る者をして了鮮感動させるに足る。

 

今日、我が国における国語国文の有様は、なお遺憾を表すべきものがある。普通教育は一旦、置いて論じないが、高等教育を卒業した者といえども、多くは国文をもって各自の意思を表明する能力が不足しているように感じられることは免れないのではないだろうか。

 

この事実は不可解なことではない。

私は昨日まで漢文をもって国文とするか或いは漢文を雅とし国文を俗とし、漢文を主とし国文を客とする妄想を有していた。国語国文が教育に用いられたのは僅かに近日のことであって、国文の教育はなお甚だ幼稚である。

 

私はわが国の教育史に遡り、我が国語国文が、中古の時代において絶滅寸前の悲運に遭遇した有様を著述することで、今日の国文教育が幼稚である理由を説明したい。

 

中古の時代、漢文の仏法とともに我が国に輸入された当初は、あたかも渇者が水を得たかのように非常の熱度をもって歓迎され、漢文をもって公私一般に用いる文とし、律令格式から歴史風土記の編纂、裁判の宣告、官吏の請暇、下は租税の帳簿、貸借の証文に至るまで、全て皆不充分ながらも漢文を用いしめた。(当時の古文書は今なお奈良の宝庫に保存されている。)

 

この時の人の考えでは、その語源語法を異にしたる漢文と国語とは、行き着くところ相合一すべきではないと思わなかったのか、あるいは又漢文漢語を用いて我が固有の国語を撲滅せんと企てたのか、今となっては測り知ることは難しいとはいえども、とにかく一国の国民としては一国の命運とともに固有の国語を愛重すべきであることを忘れたかのようだ。

 

固有の国語を撲滅するのはワケがあって許される所のものではなく、当時実際の有様は漢文はおごり、博士学士の間に行われ、僧侶に行われ、国民の一部に行われたにとどまり、政治の上での公文および政府編纂の歴史は、形式上の美観にとどまって、一般の国民にとっては到底その耳目に熟すこともなく、かえって文武は離隔し、朝野は蔽塞(物事がよくわからなくなること)となり、大政がふるわない原因となってしまった。

 

このように世の中が霧に覆われたようになってしまった中にあって、幸いにも豪傑の士がおり、音韻及び仮名の用法を発明し、これを通俗に用い、また和歌に用い、国語と密接に関連付けて、自在に使用することを見いだし、その後また一歩、歩を進めて、漢字交じりに活用し、国語を経(たて糸)とし、漢字を緯(横糸)とする。すなわち国語を主とし、漢字を客として、さらに一層の利便性を図ったのである。

 

仮名の使用は一般に利便性をもたらしただけにとどまらず、又その使用法をさらに一歩進めて漢字交じりの物語を作ることで、より一層使いやすくなったにもかかわらず、当時においては、まだ女文と言われ、朝廷の公文に用いられることもなく、鎌倉幕府の時代ですら、政府の記録及び裁判申渡は稚拙なる文章生または僧侶の手を借りて鵺の如き、漢文を用いていた。

徳川時代に至っては、ナントカ道春という僧のなりをした輩(※おそらく林羅山)は東照公の命を奉じて信長譜、秀吉譜を編著するに、なお漢文を用いてる。

 

私が最も惜しむところのものは水戸義公の大日本史を編纂するにあたり、三宅観瀾が国文を用いようと建議したが、当時多勢に押し切られて遂に漢文を用いることに至ったことであり、気運が未だ至っていなかったとはいえ、遺憾の意に堪えない。

 

思うに幕政三百年の間、文人学者がますます輩出され、漢文の著述が少なくなっていても、帆足萬里は猿の狂言のような一言を以て之を冷遇したに違いない。

 

もし、徳川時代の初めにあって一人の豪傑がおり、漢文は決して国語と一致させるべきでないことを知り、国文の形式を一定にし、公文に、歴史に、教育にこれを用いようとしたことは、その間に生まれるはずの俊才の士は青年時代の精神気力を堅苦しくわかりにくい漢文の修行に費やすことなく、他の有用な事業に注ぎ、三百年の文運は馬が駆けるように一層高度の進歩に達していたであろう

 

要するに、わが国民の国文国語における固有の特性は永い年月の間、ある種の事情のために、その発達を妨げられて経過したものであることは、歴史の証明する事実である。

 

今は、既にこの有様のままに継続すべきではない。私たちは国語国文の中興の時期を迎えている。久しく滅裂に付せられていた国語国文が再び発達する、その初期にあたり、私たちはこの発達を助けて、長足の進歩と為すためには、どのような方法を採るべきか。これが目下の問題である。

 

この方法とは、第一に政府の編纂する歴史地誌の類は全て国文を用いること。第二に教育上、国語国文を重視し、その指導方法に誤りがないようにすることである。

 

国文国語の発達を図るということは、復古というより、むしろ進歩である。

おそらく討幕以来、国語国文の著者が少なくないにもかかわらず、世間で広く用いられるに至っていないのは、その多くが既に過去の時代に頻繁に使われた古語古文のみを主張し、国民一般の感覚に通じる現在の言語文章から遠く、ある種の奇癖のように思わせている弊害があるからである。

 

古文古語はもとより尊重すべきである。ただし専門として尊重すべき、又はある場合に限り一種の美術として尊重すべきである。これを一般の国民教育として用いてはならない。

このため、現在の国文教育の任にあたっている者は自らの博雅の学識の光を抑え、国民のために一般に通用する、平易卑近なものにして、また漢字を自在に使用するために便利な国文を用いることを方針とすること。これは最も注意すべきところである。

 

但し、今の方言俚語は前述した滅裂時代の間に成立したことで不幸にも卑俗の極みに陥っているので、現在の俗語は直ちにこれを以て言文一致の国文と為すべきものには達していない。

また普段使われている手紙の文章もこれまた同様に、将来、改良を加えて誤謬の弊害を正さなくてはならない。

 

このため今、わが国の国語国文を発達させるためには、この俗語俗文をできる範囲で養い、徐々に規則正しくしていき、雅語雅文との間に適当なる調和をもって善美の成果を得ることを心に誓うのは、我々の今日における苦心の境地である。

 

次に国語国文の進歩を図るためには現在の学術社会の広博な思想に応えるために広く材料を漢文漢字から取るのではなく、欧州の論理法から取るのではなく、国文をもって文明の進歩と提携随伴し、大にしては経天緯地の種々雑多な長作となり、小にしては工芸百科亳末の微細に至るまで叙述し、漏らさないまでに至るようにするのは、決して狭い了見の中にあって古言古語を愛重しようという思いだけで為すことができるようなものではない。

 

このため、国文国語の発達進歩の職にある者は、今日の学問社会において一大事業の責務を負っている者である。私は自らの不肖を顧みず、自らの職務上のみならず、又一個人として、この一大事業の担い手の末列の一人たらんとすることを希望する者である。

 

最後に、さらに一言を付け加えたい。私が先だって教育史に遡り、漢文時代のことを叙述したときには過去における主客転倒の誤りを論じたに過ぎない。

私は国文が発達するためには、国文を主とし、漢字を客とすることを主張する者である。

 

国文の組織結構の下に漢文漢字の豊富な素材を自在に使用せんことを願う者である。

漢文は国文の良友である。国文の敵ではない。私はまた漢学の着実、中正なる道徳が我が国の中古の進歩を促したことを信じ、かつ後世にわたって漢学が我が国の教育に貴重な一元素となったということを信じる者である。

 

このため私は漢文を排斥せんがために学問世界に向けて、いたずらに軋轢の分子がまかれることを望んではいない。

 

 

かってに財務官僚名鑑~浅川 雅嗣~ #くたばれ財務省

かってに財務官僚名鑑~浅川 雅嗣~

 

【浅川雅嗣】

81年大蔵省入省。異例の3期目に突入した財務官。

麻生財務大臣とは08年の首相秘書官の時からの付き合いで、大の仲良しであり、オトモダチの関係。

 

従来の人事慣例ではあり得ない3期目続投も麻生財務大臣たっての希望で実現したと噂される。

このため後輩にあたる84年組は事務次官はおろか財務官の輩出すらままならなくなると言われている。

 

いつ何時いかなる状況下においても「注視する」としか発言せず、急激な円高に見舞われても一ミリも動こうとしない”傍観者スタイル”が信条。

ついた渾名は「見守りの浅川」

そのゼンマイ仕掛けの機械人形のように「注視する」とリピートする様は、ある意味、清々しさを覚えるほどだという。

 

3年目の今期も名人芸の域に入ったと言われる”傍観者スタイル”が炸裂するのだろうか。

 

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鮮やかすぎる、財務省の「負けたフリ」人事 ビール腹と茶坊主とエージェント

鮮やかすぎる、財務省の「負けたフリ」人事 ビール腹と茶坊主とエージェント

 

現代ビジネスの記事より

霞が関「7月人事」に異変!出世するのは安倍・菅両氏のお友達ばかりhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/52114

 

財務省の負けたフリ人事がよく分かる素晴らしい記事です。(皮肉)

官邸の顔色を窺う。それは大蔵省時代に「最強の官庁」と呼ばれた財務省も同じ。幹部人事ではやはり「お友達」が優遇されそうだ。

と、さも官邸の意向が人事に反映されているかのような出だしながら、

佐藤慎一次官('80年、旧大蔵省)が勇退し、後任に福田淳一主計局長('82年同)が昇格。主計局長には岡本薫明官房長('83年同)が就き、『次の次』の次官になることが確実視されています。

  

注目は太田充総括審議官('83年同)です。同期入省の岡本官房長の後釜に収まりそうですが、これは官邸に足繁く通っていることが評価されているから。

省内では『茶坊主』とまで揶揄されている。岡本氏の次の次官になる可能性も取り沙汰されています」

  

という内容。

この人事、官邸の意向どころか、どれも財務省の既定路線人事であることは、チャンネルくららの財務省ダービーを毎年楽しみにしている、財務省ウォッチャーから見れば、火を見るよりも明らか。

 

むしろ官邸が一ミリも人事介入できていないことの証左と言えます。 

 

太田統括審議官の渾名は『茶坊主』だそうですが、福田次期事務次官には『ビール腹』、岡本官房長には『エージェント(オブ・ インフルエンス)』の渾名を捧げたいと思います。

 

書評『嵯峨天皇と文人官僚』井上辰雄著 詩と書を愛した偉大な名君 ~統治(しら)すれども支配(うしはく)せず。ウィキペディアに載らない“象徴天皇の源流“~

書評『嵯峨天皇文人官僚』井上辰雄著

http://bit.ly/2tgRHq1

詩と書を愛した偉大な名君

 ~統治(しら)すれども支配(うしはく)せず。ウィキペディアに載らない“象徴天皇の源流“~

 

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嵯峨天皇の下での君民共治の治世
嵯峨天皇桓武天皇次男であり、兄は平城天皇
ウィキペディアだけをみていると、「淳和上皇らの反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王仁明天皇の皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。」などなど、やたら批判的な表現でもってその生涯が綴られています。
 
ですが、先ごろ出版された憲政史家の倉山満先生の著書『日本一やさしい天皇の講座』においては、父・桓武天皇に勝るとも劣らない偉大な名君であり、「今に至る皇室の形を作った」、「マグナ・カルタより400年も前に、立憲君主の模範を示した」と語られています。
 
また『日本人として知っておきたい皇室のこと』中西輝政日本会議)の江崎道朗先生の論考によれば、今上陛下が皇太子でいらした昭和61年、次のようなお考えを新聞紙上でお述べになられたことがあるそうです。

天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する“嵯峨天皇”以来の天皇の写経の精神や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書によっても表されていると思います。


今上陛下も天皇が国民の象徴であることの原点のひとつとして挙げていらっしゃる、嵯峨天皇
その治世とは一体、どのようなものだったのでしょうか。
より詳しく書かれているものを読んでみたいと思い、手に取ってみたのが本嵯峨天皇文人官僚』です。
そこには、優れた君主と優れた
家臣が織りなす、“君民共治の姿”が見て取れると言えます。
  
■文章は経国の大業、不朽の盛事なり
一般に、嵯峨天皇の治世は、その元号「弘仁」(心が弘く、なさけ深く、弘く仁をほどこす」という意味)をもって「弘仁の治」と呼ばれ、特に「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」を旨とし、文化事業の促進に力を入れた時代とされています。
 
嵯峨天皇自身、空海橘逸勢とともに“三筆”に数えられる、書の達人であり、

叡智は天従にして、艶藻は神授なり。猶、旦、学びて以て聖を助け、問いて裕きを増す
(意味:生まれつき、極めて優れた資質をおもちになられ、詩人としての才能はもともと生得のものであられた。だが、それにも増して、勉学に勤められた)
小野岑守・作『凌雲集』序文より)

 
と極めて優れた資質を有し、詩宴を頻繁に行うことで、朝野の一流の文化人と交流し、漢詩を詠み、史籍を編纂し、それまでの皇室の作法を書にとりまとめ、後世に残しました。
(ちなみに喫茶や日本初の図書館が登場したのも嵯峨天皇の時代だったそうです。)
 
このように文化面での業績が称えられている嵯峨天皇ですが、それ以外の面でも、優れた政治がなされていたことが、本書では明らかにされています。
 
嵯峨天皇の下に集いし、能吏たち ~藩邸の旧臣~
嵯峨天皇自身が文化事業に力を入れていた代わりに、実際の行政面を取り仕切ることで、嵯峨天皇を支えていたのは、”藩邸の旧臣“と称された臣下たちでした。
彼らは嵯峨天皇が皇太弟であった時から皇太弟の東宮坊に奉仕し、神野神王(嵯峨天皇)に近侍していた一群の人々であり、藤原園人藤原冬嗣藤原三守良岑安世、賀陽豊年、小野岑守、滋野貞主、菅原清公ら、“藩邸の旧臣”達は、皆、優れた文化人であるだけでなく、政治家としても或いは官僚としても非常に優秀であったことが記されています。
  
■国を治むる要は、民を富ますに在り ~もうひとつの“民のかまど”~
仁徳天皇「民のかまど」の話は“君民共治”という日本の国柄を表すエピソードとして、つとに有名ですが、嵯峨天皇の治世においても、嵯峨天皇および”藩邸の旧臣“たちによって、「民のかまど」の精神が実践されていたことが伺えます。
特に代表的なものを挙げるならば、初期の「弘仁の治」を支えた、藤原園人の施政でしょう。
 
藤原園人が政治の中枢を担っていた当時は、慢性的な不作が続き、国家財政窮乏が長く続いていた時期でもありました。そのことを誰よりも苦慮していた園人は、執政の最高責任者の立場から財政再建に腐心します。
  
“国庫を潤わす”だけであれば、農民から苛斂誅求(むごく厳しく取り立てること)すれば、事足りますが、園人は国を治むる要は、民を富ますに在りを旨とする政治家でした。
 
園人はあくまで民衆の立場に立って財政再建を果たすという道を選び、改革の道を推進していきます。今でいえば、経済成長なくして財政再建なしといったところでしょうか。
 
例えば、弘仁五年(814年)7月21日には、「大和河内両国遠年未納稲一十三萬四千束免じ、百姓窮乏を以て、弁進に堪えず」として、大和、河内の未納稲、十三万四千束を免じています。
経済成長を一顧だにせず、己の出世のためだけに増税ばかりを推進する現在の財務官僚に、藤原園人の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものです。
 
さらに園人は「応 収納官物 依 本蔵事」という令も出していたそうです。
これは、当時、国司たちが近場の郡から公廨稲(くがいとう。官稲のひとつ)を割り切りがちであったがために、百姓に近隣の郡倉から稲を支給しようとしても、遠い郡の正倉から与えなければならなくなくなっている現状、国司が取りあげやすい郡倉の米穀は減少し、不便な郡は逆に官物が余っている現状を指摘し、「今後はそのようなことは許されない」と、国司の悪習を弾劾するものであったそうです。
 
また、弘仁四年(813年)11月には、捕虜についての建策もしています。
諸国に流刑となった蝦夷に対して、国司らが朝旨に背き、憐み労おうとしないために、蝦夷らが叛逆するのだと指摘し、実際に播磨介、備前介、肥後守らが処分されたようです。
 
諸国の捕虜となった蝦夷らの反乱を一方的に蝦夷側に帰するのではなく、それを管理し、公民化に努めなければならなかった地方の国司の責任を問うたものであると、著者の井上博士は指摘します。
 
この藤原園人の路線は、嵯峨天皇上皇時代を通じて行われ、園人の次に政治の中枢を担うことになる藤原冬嗣らにも引き継がれ継承されていきます。
 
■統治(しら)すれども支配(うしはく)せず
以上のように嵯峨天皇は自ら積極的に政治を動かす立場に身を置こうとはせず、実際の施政は臣下に委ねていました。

 
本書でも詳しく記されていますが、薬子の変における嵯峨天皇指導力を見るに、おそらく嵯峨天皇自身が親政を行っていたとしても、後世に残る優れた政治がなされていた可能性は高いのではないでしょうか。
(例えば、平城上皇側の著名な武人官僚であった文屋綿麻呂に対しては、厚遇し、正四位上に叙し、参議に列せしめたそうです。この厚遇に綿麻呂は感激し、「歓喜踊躍」して、直ちに兵を率いて、宇治、山崎の橋を圧え、京の守護に当たったとか。このあたりのエピソードもウィキペディアではごっそり抜け落ちています。)
 
ですが、嵯峨天皇はそれを敢えて行いませんでした。
むしろ、文化事業に取り組むとともに、飢饉があれば、飢民に賑給を行い、イナゴの害があれば、負稲を免じ、疫病が流行れば、天下の名神に幣を奉じて祈らせるなどを行っていたとされています。
 
このように嵯峨天皇は”統治(しら)すれども支配(うしはく)せずを体現した天皇であり、『日本一やさしい天皇の講座』では嵯峨天皇が生み出した”天皇不親政の伝統”が結果的に皇室を長続きさせる秘訣になった」とも指摘されています。
※「統治(しら)す」と「支配(うしはく)」の違いについては、明治時代を代表する法制官僚である井上毅著の『梧陰存稿』の記述が詳しいです。
  
嵯峨天皇は書の名人というだけでなく、極めて有能な君主であり、「統治(しら)すれども支配(うしはく)せず」即ち”象徴”の体現者にして、その源流ともいうべき天皇であること、また嵯峨天皇を支えた臣下たちも、極めて優れた官僚であったことを窺い知ることができ、大いに参考になりました。
 
おススメです!

 

本が好き! 週間書評PV 第2位『倉山満が読み解く 足利の時代』、第3位『日本一やさしい天皇』他

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倉山満が読み解く 足利の時代』と『日本一やさしい天皇の講座』が第2位と第3位に!

書評でも書きましたが、この2冊はセットで読むことをおススメします!

 

そのほか4位~8位まで、なんとトップ10の中に7つ書評がランクイン!!

 

アウシュヴィッツの手紙』もついに総合ランキング30位にランクイン!

反米の世界史』も20,000PVの大台突破!

総合ランキング順位がランクアップ間近ですし、『川中島合戦』もあわせて、この3作品はある意味、常連組になっているのがスゴイ。

  

不徳を恥じるも私心なし』も『慰安婦像を世界中に建てる日本人たち』もマスコミの報道では知ることができない事実を知ることができ、とても参考になります。

多くの人に読んで頂きたい一冊です。

 

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第2位 541PV 『倉山満が読み解く 足利の時代─力と陰謀がすべての室町の人々』 倉山満 

http://bit.ly/2sfoNpf

 

第3位 423PV 『日本一やさしい天皇の講座』倉山満

http://bit.ly/2rGhJ50 

 

第4位 347PV 『アウシュヴィッツの手紙』内藤陽介

http://bit.ly/2cRwdnZ

 

第5位 293PV 『不徳を恥じるも私心なし 冤罪獄中記』 田母神俊雄

http://bit.ly/2t9agc3

  

第6位 286PV 『慰安婦像を世界中に建てる日本人たち』 杉田水脈

http://bit.ly/2mzuMkp

 

第7位 277PV  『川中島合戦:戦略で分析する古戦史』 海上知明

http://bit.ly/2lH6cz1

  

第8位 276PV  『反米の世界史』 内藤陽介

http://bit.ly/2bZt7TR 

木下康司大元帥様の近況 #くたばれ財務省 #緊縮は人権侵害 #増税原理主義者

木下康司大元帥様の近況 #くたばれ財務省 #緊縮は人権侵害 #増税原理主義者

 

特にこれと言った情報ではありませんが、

「8%消費増税時の立役者、偉大なる民族の太陽、連戦連勝の鋼鉄の霊将、史上最強の財務事務次官

と言われた、木下康司大元帥様の近況報告です。

 

最強次官の名を欲しいままにしつつも、変わらぬ郷土愛を持ち続けていることには敬意を表しますが、日銀新潟支店の金融経済動向報告によれば新潟は依然として個人消費は弱含みのよう。

 

それでも省益のために現役幹部達を消費増税へまい進させるのでしょうか。

新潟県の金融経済動向

http://www3.boj.or.jp/niigata/shiryou/geturei/g2017/geturei2906.pdf

 

 

「ミッドナイト・バス」の思い語る 竹下昌男監督が日報トキの会で講演|社会|新潟県内のニュース|新潟日報モア

http://bit.ly/2sVJN5h

 

「ミッドナイト・バス」の思い語る

竹下昌男監督が日報トキの会で講演

 

 本県出身者や在勤経験者ら本県とゆかりのある首都圏在住者でつくる「新潟日報トキの会」(会長・小田敏三新潟日報社社長)の第17回例会が16日、東京都千代田区のホテルニューオータニ東京で開かれた。来年1月に県内で先行上映予定の映画「ミッドナイト・バス」の竹下昌男監督(56)が講演し、「新潟で映画を撮りたかった」と新作への思いを語った。

 佐渡市出身の宮田亮平文化庁長官や、元財務事務次官新潟市出身の木下康司日本政策投資銀行副社長ら約60人が出席した。

 

 

※ついでに昔書いた木下大元帥様の人物紹介を更新してみました。

 

(人物紹介)

【木下康司】

革命戦士。華やかさに欠け地味だったため全く人気が出ず、田中、香川の後塵を拝すも、短時間に血税8兆円をつぎ込む「ハイスパート為替介入」と「俺は香川のかませ犬じゃない」発言で一気にブレイク。

一躍、財務省トップに躍り出る。

現在は、次期日銀総裁の座を虎視眈々と狙っているという噂も。

ポリシーは「上司には逆らわない。」

「いくら有能でも上司に逆らう奴は組織にとって危険分子」

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『梧陰存稿 人に自尊自卑の性あるの説』を読む ~過ぎたるは及ばざるが如し~ #井上毅 #梧陰存稿

『梧陰存稿 人に自尊自卑の性あるの説』を読む ~過ぎたるは及ばざるが如し~

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『人に自尊自卑の性あるの説』

本論文は後に『如蘭社話』後編第三巻(大正二年九月十五日刊)に収録。

  

自尊自卑の性とありますが、主として自卑の心に関する井上毅なりの考え方が提示されています。

 

自卑の心、すなわち自らに欠点があると感じる心、自らの社会には至らぬ所があると認識すること、それ自体は謙徳であり、進歩のもとであり、決して悪いことではない。

ただし、自卑の心は「利用すべきものであって、害用してはならないものである」と述べます。

 

黄金世界をどこに求めるのか。中国は古代に、インドは冥界に、西洋は未来に、そして日本は諸外国に求めるきらいがあると、井上毅は指摘します。

  

現世に安住していては、そこに進歩は無い。

かといって、黄金(世界)に捉われ過ぎては、現世の良さが損なわれるのではないか。

 

井上毅は奈良・平安時代を例に挙げて、その過ぎたる様を批判していますが、実は当時の官民問わずの急進的な西洋化、欧化主義に警鐘を鳴らす気持ちもあったのではないかと思わずにはいられません。

また黄金世界を諸外国に求めるきらいがあるのは、今現在の日本の姿を見ても、変わりがないように思えます。

  

ローレンツ・フォン・シュタイン博士は、「歴史にこそ無限の勢力資源がある。」と述べたと言われています。(by『シュタイン国家学ノート』より)

 

憲政史家の倉山満先生の言葉を借りれば、

「文明という横軸を乗り越えつつも、歴史という縦軸から発するものを再確認する。その積み重ねによって、変わりゆく伝統の中で国家を守り、歴史を紡いでいく。これこそが先人たちが身をもって実践してきた保守の態度です。」

となろうかと思います。

 

よりよい社会の実現のためにこそ、歴史を知り、伝統に心を配ることが必要なのではないでしょうか。

  

PS:なんだか『倉山満が読み解く 足利の時代─力と陰謀がすべての室町の人々』 の書評で書いた内容と通底するテーマになったような気がします。

興味ある方は、こちらもご覧になって頂ければ幸いです。  

(書評はコチラ)

『倉山満が読み解く 足利の時代─力と陰謀がすべての室町の人々』 

http://bit.ly/2sfoNpf

  

 

 

『人に自尊自卑の性あるの説』(意訳)

人類の万物の霊たる特徴として、その固有の高尚なる性質として、人々に自尊の天性を必ず持っており、同時にその反動としての天性、自卑の天性を必ず持っている。

 

自卑の性質は、人々自身が、自分に欠点があると感じるという個性、パーソナリティのことで、すなわち謙徳とも言えるすべての向学進歩の要素である。

 

この天性の映し出すところとして、人々みずから、自分たちが生活する社会が不十分であることを認識し、一転して、他に至善円満の人類と至善円満の社会があることを想像するに至る。

釈迦は尤も自尊を持っている人であるため、己の生活する社会を不足だとする感じることを描き出して、天地欠陥世界と述べた。

 

世の古今を問わず、国を問わず、書籍および現在の事実に徹するにおおよそ人類というものを裏面からみたならば、自尊自大なる積極の性格とまた自謙自屈なる消極の気習とを併存させているのは、これもまた一種の奇妙な現象というべきだろう。

 

それゆえ、ある人により、ある国によっては、この両極端の癖習の傾きの程度に厚薄深浅の差があるだけでなく、さらにまた種々の奇異なる状態を現出させる。

 

支那人は自ら、己の欠点と己の生活する社会の欠点と感ずるに、古代に至善円満の人物と至善円満の社会があることを想像する。

それは支那の文学がはやくに発達し、古代のことを記録した歴史家が優美で厳かなる文章をもって巧みにその人物および社会を書き記したために、後世の人は、その文章の眩さに誘惑されて古代に黄金世界があり、真理があると想像したことによるものである。

 

このように、古代に至善円満の世界があると想像するがために、「古を好む」といい、「古を尊ぶ」といい、学問なり、政治なり、百般の事について、すすんで古代の状態に遡ることを目的とし、自らの生活する社会を見下して澆季(乱世、世の末)とか、あるいは叙世末運だと盛んに言い立てることに至る。

 

又自ら、支那の古代に黄金世界があることを信じているために従い、支那という国の自尊他卑の風潮をも強盛にさせている。

 

インド人は現在社会をもって欠陥世界とし、冥界に至善円満の世界があることを想像し、開祖マホメットもまた同一の思想をとった。天堂浄土の説がこれである。

 

近世の哲学者たちは、自然の進化によって漸次に発達し、今日はようやく文明の区域に初歩を進めたことをもって未来に至善円満の世界に到着する希望があることを主張する者がいる。この説は未来来世に黄金世界があることを想像している。

 

朝鮮人の著述の書を読むに高麗の末、支那の文学がひとたび高麗に入ったときから朝鮮人の思想は起こって皆支那を崇拝して文明極盛の国としてこれを模範とし、これに追従模倣するに余念がないかのようだ。そのため、裏面よりその国の歴史によって観察するときは朝鮮という国は前後に分けて、切り離すべきである。

 

支那の文学が未だ朝鮮に入る以前は野蛮ながらも高句麗は一つの強大国になるという意思を失っていなかったが、支那の文学がひとたび入った後は一転して、まったく一つの文弱国となり果ててしまった。

 

足下のわが国の史籍を見るに古代、純朴な民の気風がようやく開けようとしたときに際し、隋・唐朝の文学が仏法とともに輸入したときは、一国を挙げて異常の賛歌をもってこれを迎え、一人、二人の聡明な人物がこれを唱導し、民衆が雷同し、その勢いは快流の如く、ほとんど自らの国あることを忘れて、文学政治風俗百般のことは皆、海を隔てた西土を模倣して、これを彷彿させることを望んだ。

 

この時の人の思想は、国語国文を廃してゆくゆくは全くの漢語漢文に変化させようと試みたようなものである。その証拠に語り部の語り伝える古代の遺事を不充分な漢文をもって翻訳編纂して正史として著し、そのため奈良の倉庫に残りたる天平年間の古文書の負債の証文、納税の受取官吏の病気届に至るまで、みな漢文で書かれていることからもわかる。

 

政治改革は非常に急激なかたちで施行され租税戸籍軍団の法はみな隋唐に模倣したようだ。中には隋の口分田をまねた班田の図が存在するということを見るにつけ、山川原野が錯綜するのもお構いなしに幾何模様に分区すること碁盤の目のようであり、そして人別にこれを配当したようである。

 

到底、実際に行われたとは思えないが、史籍の記載するところによればこれを全国的に実施したことで間違いないようだ。書紀に大宰師(大宰府長官)より上った奏文に班田の制は九州では実施されなかったようであるが、兎に角一時はこれを断行せんと試みたようである。その時の人民の苦情は、想像を絶して、なお余りがある。

 

民間の風習は正月の七日七草の粥より七月七日牛女の祭りに至るまで年中行事は大抵皆、呉越の風習を模倣し、都であろうが田舎であろうが隅々まで行われたものであるとみえ、現に今日までも残っており、殆ど我が国の古代以来の固有の風俗であるかのように思われる。

 

大化の改新はわが国の文明の初歩として進歩の階梯であることに疑問の余地はないが、他の一方からみれば、政治上には国費が疲弊し、戸口が凋亡し、民心はバラバラになり、士豪が勢いを得て、ついに武門の世となる原因となり、文学上においては固有の優美なる国語を錯乱させ、決して企ててはいけない他国の文を模倣しついに一種異様、奇怪な文体を編成し、千年間、世のあらゆる史籍及び著作をして、ほとんど、見えるはずの光来を無くしてしまった。

 

「そうはいっても今日に至り、冷眼を以て論評する立場のであれば、当時の得失を公平に判断すべきだ」とは言っても、試しに身を当時において一つの時代の潮流の中に立つものと仮定したとしても、誰かあえて興論に逆らい、衆説を干して、不屈の説をとり、後世の定論を待つ者がいなかったのだろうか。

このような場合において人智の薄弱であることは慨歎にまさる者はない。

 

なお、これのみならず最も奇怪なのは臣子の大義名分を忘れて唐の朝臣となって、自らの栄達とした阿倍仲麻呂がいた。那須国造の碑には、永昌という唐の年号を用いている。(永昌は朱鳥の二文字が歴滅したのを後世の好奇の人が改作したものであるとの説もあるが、私は現地に行って、その碑石を見るに、そのような跡があるようにはみえない。)

銅燈臺銘として有名な橘の逸勢の書には唐の諺を避けて丙の方角に景(造園)に作った。

この類によって見れば、当時の君民の思想を迷路の中に導いたのは博識聡明をもって自認していた文学者たちの罪に、その大部分があると言わざるを得ない。

 

今、虚心にその原因となるところを探れば、これは皆、人の性、自己の欠点を感じる霊覚より生じ、歩みをとして、その極点に趨りし者である。

又、人世永遠の標準により観察すれば、これも社会の進歩の一つの駅路にして、当時の人民は、この自然の運歩に支配されたものに過ぎず、ただちに一人、二人の罪ではない。

 

げんにこれを略説するに、種々の国民が、あるいは古代に黄金世界を求め、あるいは冥界にこれを求め、あるいは未来にこれを求め、あるいは外国にこれを求めるのは、皆人類自然の性により来た想像力の作用によって、変化の顕象を成すものである。

近来、西洋には絵画にかいた地獄または浄土と同じように書を記して、空想の栄土黄金世界の伝説の地を映し出して自らを慰めるものもいる。

 

これらは自己の社会の欠点を感ずる性癖の極みというべきであろう。

 

自卑の性は謙徳であり、進歩の要素である。これは利用すべきものであって、これを害用してはならない。