『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』感想③ ~押し寄せる独裁政治の波~

■押し寄せる独裁政治の波

①や②で書いた通り、議会政治は「衆議院は醜戯院」と呼ばれるほど腐敗し、陸軍も難題は現場の関東軍に押し付けて責任を取らないグダグダ組織。それが昭和6年当時の日本の状態でした。

国家がなさなければならない仕事はますます複雑となり、強い政府が求められているにもかかわらず、内閣の地位が不安定で、政府が力強い施策を実行できないのであれば、それが国民の不満を招くのは当然です。

 

そんな時、ヨーロッパ方面の政治状況はどうなっていたのか。

ロシアにおいてはソビエト政府、イタリアではファシストによる独裁政治が樹立し、スペイン、ポーランドポルトガルリトアニアギリシャなど、程度の違いはあっても相次いで同じ傾向を持ち、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの諸大国をはじめ、議会制度を維持している諸国においても、立憲政治の危機、代議政治の衰退が声高く叫ばれている状況でした。

 

世界50ヵ国以上の議会議員が構成する「列国議員同盟」においても議会制度に満足しているとの報告があったのはスイスとスウェーデンの2か国のみで、ほかの国々はいずれも議会政治の堕落と不信用を訴えない者は無く、「このままでは議会政治は死滅に瀕し、共産党ファシストか左右の独裁政治に取って代られる」との観測も上がるほど、議会政治への信頼が揺らいでいたのが当時の国内外の情勢だったのです。

  

■議会政治を問う~独裁政治VS憲政の常道

当時の議会政治といえば、「憲政の常道」とも呼ばれる二大政党による政党政治ですが、これまで見てきた当時の政党政治の腐敗・堕落ぶり、世界各国の動向から「独裁政治のほうがマシだ」という声が出てくるのもやむを得ないところなのかもしれません。

    

このような議会政治への不信からくる独裁政治への傾倒に危機感を募らせ、美濃部博士は『議会政治の検討』において、

  • 議会政治はいかなる弱点があるにせよ、なお他に見ることを得ない大いなる長所がある。
  • 独裁政治は、国家非常の際に一時の横道としては時として絶対に必要であることもあり、これによって議会政治におけるよりははるかに多く実際の効果を挙げ得ることがあるけれども、それは要するに、一時の過渡的な手段として認め得るべきに止まり、正常なる制度としては、忍び得ないものである。

と述べ、次のように指摘します。(一部要約)

議会政治の第一の長所は反対党に対する寛容の態度である。これが議会政治の独裁政治と異なる最も主要の点で、我々が独裁政治を排して議会政治を謳歌する所以は主としてこの点にある。

 

独裁政治は、ファシストの政治にせよ、コミュニストの政治にせよ、何れも一国一党の政治である。唯政府に追随し服従する者のみが認容せられて、これに反対する者の存在を許さない。人民は自己の自由なる信念によって行動することを得ないで、一に政府者に盲従することを余儀なくせらるる。政府に反対する者は、即ち国賊であり、自由の行動を許されないのみならず、その生命すらも脅かさるる。スパイの暗中飛躍と正義を無視した暴力の圧迫とは、その必然の結果である。  

 

議会政治はあたかもこれと正反対の地位に在る。現に政権を掌握する者は多数党であっても、それは決して絶対不動の地位に有するものではなく、反対党もまた正当にその存在の権利を主張し得べく、他日若し多数を得る機会があれば、代わって政権を掌握し得べき希望を持っている。 

 

暴力に依らず、合法的手段に依って政権の移動を見ることを得べきは、ただ議会政治においてのみ可能である。

 

第二の長所は、国の政治を公開して国民の批判の下に立たしむることにある。

議会における討論がいかにその権威を失ったにしても、なお議会の開かれている間は、天下の耳目は議会に集注し、その重なる言論は全国の新聞紙によって広く国民に報道せられ、国民の政治思想がそれによって刺激せらるることが著しい。

立法府として及び予算の議定者としての議会の機能は、殆ど有名無実となり、そのすべての実権は政府の手に帰属するに至ったとしても、なお議会は国民環視の前に公に政府の施政を批判し弁難する機能を有するもので、ここに議会制度の一の大なる政治的価値がある。

 

独裁政治は批判を許さない政治である。すべての政治は秘密の間に断行せられて、国民は唯これに従うべく余儀なくせらるるのみであり、これに対する不満を訴うべきところがない。

 

第三の長所は、政治の局にあたるべき首脳者が間接に、国民の奥望に依って決せらるることに在る。

国民は直接には唯議員を選挙するのみであるが、その選挙の結果に依って多数を占め得た者が、内閣を組織すべき大命を受くることとなるのであるから、議員の選挙は間接には内閣の運命を定むるの原因となり、結局は内閣が国民の奥望に基づいて組織せらることとなる。議会政治の他の一の政治的価値は、この点にこれを求めることができる。

我々が議会政治を支持せんとする所以は、主として以上三点に在る。

「議会制度の危機」(昭和6年3月号『中央公論』所蔵)

 

日本において明治維新以後の今日まで政府の組織がいかに変遷してきたかを通覧すると、立憲政治の実施に至るまでの間は、言うまでもなく、純粋の薩長藩閥を主軸とする独裁政治であった。薩長政治は単に政権を掌握したばかりではなく、同時に兵権をも握っていたのであって、陸軍の首脳者と政治の首脳者とは、同一の人であるか、または少なくとも固く相提携していた。

即ち兵力を基礎とする独裁政治が行われていたのである。近頃に至ってファッショ政治ということが、さも新しいことのように唱えられているけれども、ファッショ政治とは結局武力を基礎とした独裁政治であって、日本に取っては決して新しいものではなく、既に多年試験済みの制度である。日本にファッショ政治を行うということは、結局憲法実施前の状況に逆転しようとすることにほかならぬ。

 

こういう政治が過去の日本においていかなる成績を挙げ得たかというと、その偉大な功績はもとより否定し得べからざる所で、内治、外交、軍備、財政、経済のすべてに亘って旧制度を覆し、近代日本の基礎を築いたのは、少なくとも薩長政府の指導に大なる原因を有することは、争うべき余地もない。実際にも維新以後におけるような急激な大改革を断行するには、こういう独裁政治でなければ、不可能であったろうに思われる。

 

但し、一方においては、それはかなり罪悪に満ちた政治であったことも、また争いを容れない所である。少なくともそれは反対者に対する極端な圧迫の政治であり、同時に権力者自身の罪悪に対しては、これを批判し攻撃すべき何らの手段をも許されなかった政治である。

こういう政治に対して、その圧迫を受ける者の側から、強い不平が起こることは、もとより当然であって、佐賀の乱や、西南の役のような大動乱は暫く別にしても、武器を取って政治に反抗せんとする企ては終始絶えなかった。言論集会の自由は極端に抑圧せられ、政党は国賊視せられ、政府に反対する者は居住の自由をも奪わるる有様にあった。

 

 明治14年明治23年を期して国会を開設することの詔勅が発せられたのは、こういう独裁政治を以っては、維新の大業を体制する所以ではないことを洞察せられた結果であって、今日に至って、再び議会開設まえのような独裁政治に復帰しようとすることは、この過去の貴重な経験を無視するものと言わねばならぬ。

(中略)

したがって独裁政治を布くということは、すなわち憲法を中止することを意味する。立憲政治と独裁政治とは絶対に相両立し得ない思想である。あるいは国家の存亡危機に際して憲法の中止もやむを得ないというような極端な説が有るかもしれぬが、独裁政治に依って果たして国家の危急を救うことが出来るかどうかは、極めて不確実な問題で、独裁政治が成功し得るためには、第一にはその主脳者たるべき威望ある大政治家を得ることが必要である、第ニには時の国情が独裁政治に適していることが必要である。

 

こういう特別な事情のある場合でなくして、強いて独裁政治を行おうとすれば、そこには唯混乱があるのみで、それは国家を救う所以ではなく、却って国家を破壊に導く所以である。仮に独裁政治を行うだけの適当な有力者が有り、また時の国情がそれを許すだけの事情が有るとしても、独裁政治といえば常に腕力の政治であり、弾圧の政治であることを必然の性質としているもので、一時の非常手段としてはやむを得ずそれを是認しなければならぬ場合が有り得るとしても、長きにわたっては決して国民を幸福ならしむる所以ではない。

「内閣制度の種々相(昭和7年10月号「経済往来」所蔵)

    

また、政党政治の腐敗にかかわりなく、そもそも政党政治自体に否定的な立場をとるグループも従来から存在していました。いわゆる観念右翼です。

後の国体明徴運動の源流ともいえる上杉慎吉東大教授らによって提唱された学説、天皇主権、天皇親政説は「我が国は天皇を中心とする国体の国であり、デモクラシーがいきすぎれば愛国心がなくなる」と主張し、政党政治に否定的な立場でした。そして、平沼騏一郎に代表されるような官僚系政治家もこの説を支持します。

憲政の常道」が続いているかぎり、政党員でなければ、平沼ら官僚系政治家には出番が回ってこないからです。

 

軍部も政党内閣に予算を握られているという力の関係上、政党内閣に抑圧される側であり、本質的には政党と対立する勢力です。

だからこそ田中義一のような軍人は政党におもねり、政党入りすることで栄達を果たそうとしたのです。

 

そんな政治情勢が揺らいでいるさなか、満洲事変を契機に起こったのが「協力内閣」運動でした・・・(続く。)

 

(参考文献)

『学校では教えられない歴史講義満洲事変』(倉山満。ベストセラーズ。2018年)

『議会政治の検討』(美濃部達吉。1934年)

『検証 検察庁近現代史』(倉山満。光文社新書。2018年)

 

いよいよ本格化か?! 財務省人事を読む 前局長佐藤正之氏の転出先は内閣官房 九州財務局長に川瀬氏:日本経済新聞 #くたばれ財務省 #がんばれ関税局

いよいよ財務省人事も本格化しそうな気配ですね。

そう思った記事がこちら。

 

九州財務局長に川瀬氏:日本経済新聞

www.nikkei.com

 財務省20日、同日付で九州財務局長に国家公務員共済組合連合会総務部長の川瀬透氏が就任したと発表した。前局長の佐藤正之氏は内閣官房日本経済再生総合事務局次長となる。

 川瀬 透氏(かわせ・とおる)84年(昭59年)明治大政経卒、東北財務局へ。関東財務局管財第一部長などを経て17年7月から国家公務員共済組合連合会総務部長。福島県出身。58歳。

 

注目したのは、前局長の佐藤正之氏。

内閣官房日本経済再生総合事務局次長という肩書で内閣官房入りするようです。

そこで佐藤氏の経済観、財政観はどうなのかというのを調べてみたところ、ちょうどよい資料が。

 

doyu-kumamoto.gr.jp

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佐藤正之氏

 

(抜粋)

それでは、財政を再建するための方策は一体何か。それは、各論はともかく方向性は明快で、世界最悪の債務残高対GDP比の数字を下げれば良い。具体的には、分子の債務残高を小さくするべく毎年の財政収支赤字を抑え(=①社会保障支出等歳出の合理化・縮減、②消費税等歳入の拡大)、分母のGDPを大きくするべく③成長戦略ないし構造改革を進めることだ。日本のように財政状況が悪化してしまうと、この3つの方策をすべて同時に取らないと間に合わないと考えられる。

ちなみに、②歳入の拡大に関連して、なぜ消費税の引上げが言われるかと言えば、それは、所得税法人税のように、景気の振幅で税収がぶれることがないため、社会保障制度を安定的に支えることが出来ることがある(図6)。また、社会保障負担は、一般に現役世代に重くなるが、消費税は年齢を問わず均しくかかることから、現役世代への負担の偏りを回避することが可能となる。

(引用終わり)

 

人によってとらえ方は様々でしょうが、個人的には「宇宙が滅亡しても増税」の現官房長のベリヤ野氏に代表される財務省増税原理主義者というわけではなさそうかなと。

 

また佐藤氏は関税局畑をずっと歩いてきた人間のようなので、そのあたりも少し期待してしまいますね。

がんばれ関税局!

 

 

浅川事務次官報道に関する岡本主計局長の腹の内 #くたばれ財務省 #シゲーリン 

浅川氏の後任財務官と報道されている武内氏は森友学園問題発生当時の近畿財務局長ですね。
財務省スターリン”こと岡本”シゲーリン”主計局長からすると、麻生氏を喜ばせてやるのと同時に森友問題を引っ張ることで安倍総理をいびることができるというわけですか。

相変わらず手が込んでいますね。
 

とはいえ、シゲーリンの尊敬する兄貴分だった香川元事務次官(故人)なら、ここまで姑息な手は使わず、真正面から官邸にぶつかっていったのでは。

だからこそ香川元事務次官は多くの人から愛され、敵味方問わず尊敬されているのでははないでしょうか。

 

香川元次官の弟分を自認するならもう少し正々堂々とやっていただきたいものです。


東京新聞 2017年12月1日 朝刊
「森友」真相究明、逃げ腰の財務省 不手際認めても栄転幹部は不問
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201712/CK2017120102000129.html

 

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財務省スターリンこと岡本シゲーリン主計局長

 

麻生のお気に入り、事務次官就任も噂される浅川財務官は反米派?! #くたばれ財務省 #財務省 #浅川

反米官僚をトップに据えてG20は大丈夫?!

 

中曽根康弘氏が初代会長の東アジア共同体評議会に参与として参加

東アジア共同体評議会の概要
http://www.ceac.jp/j/pdf/intr_2017.pdf
【参 与】
浅川 雅嗣 財務省財務官
森本 浩一 文部科学省国際統括官

 

JSME 日本金融学会

東アジアにおける金融協力の現状と今後 財務省 浅川雅嗣

http://www.jsmeweb.org/ja/annual/pdf/07f/07f203-asakawa.pdf

ドル建ての外国資本に過度に頼ることなく、アジア域内の豊富な国内貯蓄を活用し

て、現地通貨建ての長期資金を直接域内の企業に安定的に供給することが極めて重要である。

  

今後の東アジアにおける望ましい通貨制度を検討する場合、あくまでドル基軸体制を前提にするのか、ドルとはある程度距離を置いたスキームを構築しようとするのかは、明確に区別して考える必要がある。CMI は、基本的には介入通貨たる米ドルの相互融通メカニズムであるという意味で、あくまでもドル基軸制を前提とした政策措置である。

 

しかしながら、今後東アジアの域内貿易における取引通貨として域内通貨のシェアが増大し、その結果米ドルとではなくアジア通貨間の変動幅を縮小することへの政策的な必要性が高まっていけば、CMI がそのための介入通貨の相互融通メカニズムに発展する可能性は否定し得ない。

  

通貨制度としての共通通貨バスケット制と、それを支えるマクロ政策協調のためのサーベイランスメカニズム、そして CMI という 3 つの要素がそろえば、東アジアにおける金融、通貨協力を今以上に深化する政策的環境が整うことになるといえよう。

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『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』感想② 中央VS出先~満洲事変前夜としての張作霖爆殺事件~

■中央VS出先~満洲事変前夜としての張作霖爆殺事件~

満洲事変期における政局の主役として、政党政治とともに「軍部」の存在も忘れてはなりません。

とはいえ、通説では「軍部の独走により満洲事変が起こった」「満洲事変は陸軍が一枚岩で行ったもの」ということになっているようですが、事実は全く違います。

実際は、「中央」対「出先」、つまり「参謀本部」対「関東軍」という構図でした。

   

では、なぜ「中央」と「出先」が対立することになったのでしょうか?

 

宮田昌明先生の大著英米世界秩序と東アジアにおける日本―中国をめぐる協調と相克』錦正社、2014年)によれば、そこに張作霖爆殺事件が通説とは異なる”かたち”で関係していることがわかります。

  

一般に張作霖爆殺事件は、張の殺害をきっかけに満洲全域の占領を図るために起こされた事件として理解され、それによって同事件は後の満洲事変の”原初的な計画”として位置付けられています。

 

ですが、実際のところ同事件は、当時のエスタブリッシュメントや軍上層部に対する不平、不満を持つ、関東軍のいち大佐による独断的かつ突発的な行動であり、短絡的、直情的な思考のもと実行されたというのが実態であることが指摘されています。

 

当時、南から蒋介石が来るのに対して満洲と北京周辺を抑えていたのが張作霖でしたが、その初期において張作霖との接触ルート構築の一翼を担っていたのが、後に首相となる田中義一ら(当時参謀次長)でした。田中義一参謀次長は中国の有力政治家に対する日本の影響力を強めることで、中国における軍閥操縦を進めようという目論んでおり、その有力政治家の一人として張作霖がいたのです。

 

とはいえ、次第に蒋介石の国民政府が勢力を拡大して中、張作霖は不利な立場に置かれていき、その凋落ぶりは誰の目にも明らかとなっていきます。また、日本としても、時の中国政権に対する干渉的政策が対抗的なものであれ、協調的なものであれ、中国ナショナリズムの反発を招く結果になることから、特定の軍閥と関係を持つことを避けようという外交政策に転換していきます。(宮田先生はここに幣原外交の本質があると指摘されています。)

 

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張作霖



 

■排日の頂点としての奉天

徐々に日本が張作霖と距離を取り始めるなか、両者の間に決定的な亀裂を入れたのは張作霖の経済政策でした。長城以南の武力制覇に固執する張作霖は戦費捻出のため紙幣を乱発します。このことによって張作霖が発行する紙幣である奉天票”は下落し続け、その暴落は危機的な状況を迎えます。

 

こうした中、張作霖政府は、奉天票以外の現地で流通していた兌換紙幣を張作霖の指定する相場で強制的に不換紙幣である奉天票と交換し回収しようとします。

これは実質的に張作霖による資産没収と管理為替制度の導入を通じた経済統制であり、兌換紙幣を主として使用していた日本人商人は現地の中国人商人と商取引ができなくなってしまいました。

日本と奉天政府との関係も満洲における反日機運とも呼応し、劇的に悪化してしまいます。

  

田中義一という性根の腐ったクズ

ほどなくして、蒋介石の国民政府との戦いに敗れた張作霖は北京から満洲に戻ることになりますが、両軍の兵が武装したまま、戦闘状態もしくはそれに近い状況で満洲に帰還するということは満洲も戦乱に巻き込まれる可能性が生じることを意味します。

 

このため関東軍は両軍に対する武装解除を目的とした武力介入を想定し、部隊出動を政府に要請、出動準備に着手しますが、蒋介石との戦いに敗れたとはいえ、張作霖にはまだ利用価値があると踏んでいた田中首相は、一旦は関東軍の要請を受け入れたかのようなそぶりを見せながらも最終的には出動命令を発しませんでした。

実際、一度は現地の判断を受け入れたかのような対応が政府側に見られ、5月20日には21日に上奏が行われるという情報が伝えられたことから、関東軍は出動を22日に延期するなど、出動命令を待つだけの状態だったそうです。

 

ですが、結局出動命令は下りずじまい。

これが関東軍からはどう見えたか。

当時の斎藤関東軍参謀長ですら

「政府の意図は張作霖を保護することにあり、そのために生じる不測の事態については、関東軍司令部に責任を負わせることで解決しようとしているのではないか」

と疑う始末。

 

さらに、その後判明した資料によれば、田中義一首相や白川義則関東軍司令官らは、張作霖が軍事顧問を介して送ってくる「付け届け」を受け取っていたのだそうです。

 

張作霖からの「付け届け」が日本の首相、軍上層部に届けられる一方、在満日本人の苦境が放置される。

 

田中首相は既に陸軍機密費の私的流用が議会で問題にされたこともあり、公金や職権の乱用は公然の認識となっていました。政友会総裁の座も「陸軍機密で買った」といわれるほどです。

 

歴代首相の中には、選挙に負けるのが嫌で解散しなかったというヘタレっぷりを発揮した若槻首相や、八方美人であることだけが取り柄の稀代のポピュリスト・近衛首相、民主党政権下の鳩山、菅首相など、ダメ総理大臣は数多くいますが、エピソードを聞いて一番最初に浮かんだ言葉が「性根の腐ったクズ」だったのは、田中義一首相ぐらいではないでしょうか。

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田中義一

 

挙句の果てには、田中首相が当初は事件の首謀者を厳正に処分するといいながらも、一年も待たせた挙句「やはり厳正な処分はしません」と言い出します。(この過程には田中首相以下、当時の陸軍首脳陣の意向もあったのだとか。)

結局、軍上層部は誰一人責任を取ることもない一方で、主犯の河本大佐は予備役に強制的に編入、つまり退役させられます。

 

河本大佐が張作霖を爆殺するに至ったのも、張作霖の横暴のみならず、場当たり的な損得勘定で方針をころころ変え、口では「保境安民」などと言いながらも現場の治安を一顧だにしない無責任な中央への反発があったからなのですが、この程度では一ミリも揺るがないほど軍上層部は腐りきっていたということなのでしょう。

  

これらのことが契機となり、中堅将校たちの間に軍を改革しなければという意識を芽生えさせ、「中央」VS「出先」あるいは「軍上層部」VS「中堅将校」という対立を生みだしていき、「皇道派」と「統制派」の対立にも影響を与えていきます。

 

張作霖爆殺は河本大佐の意図とは異なったかたち、すなわち軍部内の派閥抗争、意見対立に亀裂をもたらすというかたちで根深い影響を残したといえます。(続く)

 

 

  

   

『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』感想① 衆議院ならぬ醜戯院?!~正論が通らなくなる背景~

■「昭和6年9月18日~12月11日の専門家」による”本気の書”

『嘘だらけ~』シリーズの他、『大間違いの織田信長』『『誰も教えてくれない 真実の世界史講義』『日本一やさしい天皇の講座』『右も左も誤解だらけの立憲主義』『自民党の正体』『検証 検察庁近現代史』等々多数のベストセラーを世に送り出している倉山満先生の”本気の一冊”。

 

多数の著作をもつ倉山先生ですが、ご専門は憲政の常道であり、特に満洲事変期に憲政の常道がどのようにして崩れていったのか」を研究対象とされており、さらに突き詰めていうならば「昭和6年9月18日~同年12月11日の専門家」ということになるのだそうです。

 

つまり、本書は倉山先生が専門とされている満洲事変期そのものを題材にした「専門そのものの前提」を書いた一冊であり、「普通の人が満洲事変を理解するには、このくらい知っておいてほしい」という知識を集めて体系化したものなのだそうです。

 

本書を読めば、満洲事変期に坂道を転げ落ちるように日本の政治が劣化していく様が、正論が通らなくなる時代に突入する様が、手に取るようにわかるのですが、そもそも政治の劣化させたのは、正論が通らない空気を作ったのは、一体誰なのでしょうか?

 

衆議院ならぬ醜戯院?!~正論が通らなくなる背景~

本書でも「当時の政党政治はスキャンダル、足の引っ張り合いに明け暮れていた」との記されていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。

 

美濃部達吉博士の『議会政治の検討』には昭和6年当時の政党政治が民衆からどのようにみられていたのかが詳しく描かれています。

 

美濃部博士によると、

  • 投票の買収が至るところで行われているのは公然の秘密であり、買収によらずに当選することなど殆ど望みが無い。
  • 選挙費用は法律で定められていても、空文化しており、ほとんどの議員は法定制限を超える選挙費用を投じて、やっと当選できる。
  • 政府与党の権力濫用も目に余る始末で、内閣の交代ごとに地方長官や警察署長の更迭が行われ、それが主に選挙干渉のためであることは疑いないと人々からみられていた。

という有様だったようです。

 

さらに当時の議会での議論の様子もさらに悲惨だったようです。少しでも国利民間に貢献するならばまだしも、

  • 多くは国民生活の実際には何の関係もない形式的名目的な事柄、条約の前文に「人民の名において」とあるのがけしからんだとか、そういうくだらないことがさも国家の重大事件であるかのように、繰り返し論議され、
  • 挙句の果てには、暴力を以って議事進行を阻止し、ついには議院内で殴打乱闘、流血事件まで起こり、
  • 新聞に「衆議院ではなく醜戯院だ」、「二大政党は二大暴力団である」、「言論の府は総じて暴力乱闘の巷となった」、「議会が自ら議会を否認し墓穴を掘った」と書き立てられる始末。

片や、東北では餓死者が続出、少女が身売りする中、元老、宮中高官、財閥、政治家、高級官僚という「エスタブリッシュメント」と呼ぶべき特権階級は広大な面積の土地を私有し優雅な生活をしている上、政治はこんなスキャンダルと腐敗に明け暮れる日々。

 

これでは国民が政治不信、政党不信に陥るのも当然だったのかもしれません・・・。(続く)

 

 

  

   

【本が好き書評PVランキング】 『笑う数学』と『検証 検察庁の近現代史』で1位、2位フィニッシュ! #日本お笑い数学協会 #倉山満 #チャンネルくらら #書評 #読書 #読了

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2018/04/09 - 2018/04/15

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第1位

笑う数学

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第2位

検証 検察庁近現代史

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第4位

誰も教えてくれない 真実の世界史講義 中世編

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第5位

新・環境思想論-二十一世紀型エコロジーのすすめ 

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