『梧陰存稿 五倫と生理との関係』を読む~教育勅語は儒教にあらず、自然の摂理に根差すものなり #教育勅語 #井上毅 #聖徳太子 #儒教 #五倫 #和を以て貴しとなす #自然の摂理 #梧陰存稿

『梧陰存稿 五倫と生理との関係』を読む

教育勅語儒教にあらず、自然の摂理に根差すものなり

 

f:id:ScorpionsUFOMSG:20170526045103j:plain

 

■梧陰存稿収録「五倫と生理との関係」

本文は『教育時論』第351号(明治28年1月15日号)に発表されたもの。

 

五倫とは、儒教の教えである

「父子の親(親愛の情)」、

「君臣の義(地位や事態に応じた適切な態度)」、

「夫婦の別(男女の区別)」、

「兄弟の序(兄弟間・長幼間の序列)」、

「朋友の信(友人間の信義・誠実)」

のことで、その内容は一見、教育勅語そのものであるかのように見えます。

   

ですが、本当に教育勅語儒教の教えを説いたものなのでしょうか?

  

教育勅語発布は現場からの嘆願~教育現場の混乱~

そもそも教育勅語はなぜ発布されたのか。

文科省HP掲載の学制百年史「明治憲法教育勅語」-「教育勅語の起草と発布」によれば、

「条約改正問題を控えて欧化主義思想が国内を支配し、従来の徳育の方針と激しい対立を示すようになった。そして徳育の方針に関し、論者は互いに自説を立てて論争し、いわゆる「徳育の混乱」と称せられる状況を現出した。」

とあります。

これが教育の現場にも多大な混乱を招いたことに地方長官たちも困り果て、徳育の根本方針を文教の府において確立し、これを全国に示してほしいという趣旨の建議を提出したことがその発端であると記されています。

 

教育勅語と言えば、何だか上から下へ押し付けたものという印象が未だにまかりとおっていますが、実際は、下からの嘆願に応える形で作成されたものと言えます。

 

また、現場の混乱を収拾するために作成したのであれば、ある特定の学派に偏った教えであっては混乱が収まるはずがないことは自明と言えるのではないでしょうか。

 

教育勅語自然の摂理に根差したもの

にもかかわらず、一見すれば、教育勅語はまさに五倫の教えを述べた儒教的なものにうつります。

なぜか。

その理由を本論文で井上毅は次のように述べています。(※当方意訳)

「五倫は人として人たるものは社会で生活するために必ずその規範に則って行動すべき道にして、古今を通じ、国内外で実践されている、逃れようとしても逃れることはできず、避けようとしても避けようがないものである。

 

誰が五倫を儒教固有の主義だと言っているのか。また誰がこれを東洋の古い因習の一つとみなしているのか。東西各国の情勢も調べず、古今の歴史をも論じていないではないか。

どんな論理であっても我々人間に息づく元来備わっている自然の摂理に抵抗することはできない。

 

個人の生活と五倫の関係とは、例えば目と色のようなものである。

色がなければ目はその役割を果たせない。暗室に閉じ込められて五色を見させられたところで、その色は見えはしない。

人が五倫の関係を失うということは、自然の摂理を失うということだ。」

 

つまり、儒教に基いて教育勅語が作成されたのではなく、人の摂理、自然の摂理に基いて教育勅語を作成したら、偶然、五倫と同じになったというところではないでしょうか。

 

実際、本書『梧陰存稿』で解説するところの五倫の内容を読むと、そこに通底するのは、儒教というよりはむしろ、聖徳太子が説いた「和を以て貴しとなす」とする“共存共栄の精神”であるように思えます。

 

本論「五倫と生理の関係」を読めば、より一層、教育勅語の内容を味わい深く感じることが出来るのではないでしょうか。

 

是非一度読んでみて頂きたいです。

 

五倫と生理との関係(意訳。抜粋)

■夫婦の別(男女の区別)(要旨意訳)

男女が結ばれること、二人で一人になることは一陰一陽一剛一柔であって、天地の不思議な作用があって、子孫を育てる。これは人類の組織構造に起因したるものであって、自然の摂理であることに異論はないのではないだろうか。

古典では諾冊二神(イザナギノミコトとイザナミノミコト)でお述べになられるところの有余不足相補うの作用とおなじく、互いに助け合うというエピソードがある。

すなわち、男性は剛勇にして潤大高尚の徳を備え、女性は温和にして機微精緻の性質を持っているというのは、一方は外を治め、一方は内を治めるのに適当な固有の能力であるといっていいのでないか。

 

このため西欧列強においても女性が政権を担うことがないのは、どの国でも同じところである。

西欧諸国の男女同権の説は、私権においてのみ、どの程度認めるかについて差があるとしても、民法においてはこの説が実行されている例はない。

 

夫婦の間における作用とおなじように、倫理の関係は自然の摂理における人身の組織構造に基づくものに他ならない。

 

■君臣の義(要旨意訳)

君臣の関係はというと、西欧諸国の先人たちがいうように人は団体動物である。

人は相集まって、団結し、助け合い、頼り合い、交換し合わなければ生活することはできない。

集団が小さければ村落であり、大きければ国家となる。一家があれば家長がおり、一国あれば君主がいる。

多くの人がつどい合う中にあって、秩序が成り立たなくてよいのだろうか。

治める人は人に養われ、人を養う人は人に治められる。木枝が別れるのと同じように、ばらばらのように見えて、その根本はひとつである。

そのようにして主君の道は成り立っている。

 

「かのアフリカ人又は南洋諸島が無知で愚かであることは、殆ど獣類と大差ない有り様であるが、とりわけ人類としての特徴を現わすものは村落に酋長がいるかどうかをもって説明し得る」と、探検家の手記で伝えられている。

 

これは君臣の道は夫婦親子と同じように人類の元来備わっている機能に基づくものではないだろうか。

 

そもそも人は羽毛があって空を飛べるわけでもなく、鱗があって水の中を潜行することもできず、歯角爪牙の類のものも、獲物をつらぬくのに十分ではない。

 

このように薄弱な体躯といえども人々の親しみ合い、慈しみ合う情と団結しあう力は、虎豹豺象をも追い払い、恐ろしき怪獣毒蛇をも攻め平らげて、百物の上に最高優勝の地位を占めるに十分なものである。

 

もしこの団結の効用がなければ、一族の人間、人民が絶滅することにそう時間はかからないだろう。

10万の兵も将を欠くときは戦うことはできず、億万の民衆も君主を欠くときは立つことさえできない。そうした団結の強さは、ただ国民の忠愛の情がどのような状態であるかで推し量ることになる。

 

■五倫に対する批判について(要旨意訳)

このようにして五倫は人として人たるものは社会で生活するために必ずその規範に則って行動すべき道にして、古今を通じ、国内外で実践されている、逃れようとしても逃れることはできず、避けようとしても避けようがないものである。

 

誰が五倫を儒教固有の主義だと言っているのか。また誰がこれを東洋の古い因習の一つとみなしているのか。東西各国の情勢も調べず、古今の歴史をも論じていないではないか。

どんな論理であっても我々人間に息づく元来備わっている自然の摂理に抵抗することはできない。

個人の生活と五倫の関係とは例えば、目と色のようなものである。

色がなければ目はその役割を果たせない。暗室に閉じ込められて五色を見させられたところで、その色は見えはしない。

人が五倫の関係を失うということは、自然の摂理を失うということだ。

 

私は儒家たちが五倫を威張り顔に一門の占有物のように主張して他の者を無父無君などと言い煽ることを笑う者である。

 

また世の人が五倫をもって儒教主義の産物とし、自らは五倫の教えのために奮起しているかのように思い込んでいる者たちを笑う者である。