『梧陰存稿 言霊』を読む~我が国の憲法 五色を“しらす”天皇(すめらみこと)#井上毅 #梧陰存稿 #しらす #うしはく #倉山満 #江崎道朗

『梧陰存稿 言霊』を読む~我が国の憲法 五色を“しらす”天皇(すめらみこと)


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『言霊』

本論文は『皇典講究所講演録』第二巻(明治23年3月1日刊)に「古言」と題して収録。のちに『教育時論』第360号付録「梧陰先生遺文」(明治28年4月15日刊)に収録。

 

大日本帝国憲法 第一条

大日本帝国万世一系天皇之を統治す

 

「統治す」とされてますが、井上毅が作成した憲法草案においては、「しらす」とされていました。

 

『帝国憲法物語』(倉山満著)によれば、当時においても、すでに人々にとって馴染みのない言葉となっており、このため「統治す」という言葉が採用されたそうです。

憲法義解でも「統治す」とは「しらす」に他ならないと解説が加えられていますが、「しらす」は、さらに支配、領有を意味する「うしはく」に対する語であることが梧陰存稿収録の『言霊』でも述べられています。 

   

「うしはく」を現代風に言えば、「占領している」とか、「占有している」というのが適切なのではないでしょうか。

そこには暗に物質的な力(武力)による上からの抑えつけという概念が通底していると言えます。

 

では「しらす」という言葉それ自体が直接的に指す意味とは何なのでしょうか。

 

「統治」という言葉すら、現在においては「まとめおさめること。特に、主権者がその国土・人民を支配し、おさめること」とされており、これでは、井上毅が「玉と石ほど違う」と指摘した「しらす」と「うしはく」の明確な違いが伝わらないような気がします。

  

「しらす」の意味を考えてみたところ、同じく梧陰存稿に収録されている『五倫と生理との関係』で述べられている比喩が目に留まりました。

   

『個人の生活と五倫の関係とは例えば、目と色のようなものである。

色がなければ目はその役割を果たせない。暗室に閉じ込められて五色を見させられたところで、その色は見えはしない』

(by「五倫と生理との関係」より) 

 

人が元来備えている素晴らしい特性、すなわち五倫を“色”に例えたならば、暗室に日の光を行き届かせ、“五色”のありのままの美しさを“知らす”ところに、“しらす”の本義があるとも言えるのではないでしょうか。

 

倉山満先生の『日本一やさしい天皇の講座』や『日本人として知っておきたい皇室のこと』に掲載の江崎道朗先生の論を読みながら、こんなことを考えてみました。

 

梧陰存稿、本当に味わい深いです。

 

『梧陰存稿 言霊』(意訳) 

■言霊

古い言葉を吟味するということは一つの歴史学である。いずれの国であっても太古の歴史は曖昧であって当時の思想や風俗は文字で残っている伝記のみであって知ることが困難であることが多いが、古くから伝わる言葉は古の人の風俗・思想をそのまま後の世に伝えて、遥か未来から古へと遡って当時の様子を想像させる。

ならば古言を取り調べることは歴史学の一つとして数える価値があるといえる。

 

そもそも「言霊の幸はふ国」と称えられる我が国の古言には様々な尊きことが述べられている中に、私はこの上なく素晴らしい言葉を見つけた。

 

土地と人という2つの原資を備えた国を支配する所作を称える言葉は、国々によって様々だが、支那では国を有(も)つと言う。有つとは、我が物にして、我が領分であり、手に入れる心であって、一般に、ある屋敷を手に入れた、或いは、ある山を我が物にしたと言う時と同じ言葉である。

 

詩経に奄有天下とあり、奄有とは「覆いかぶせて手に入れる心」であって、天下は広大なものであるから、このように称したのであろうと思われる。

これは、領土、国民をモノのように一つの私財とみなすものであって、『中庸』においては富有天下ともいう。

 

一人が天下を私物にするとは穏やかならぬ言葉であるが、支那の聖人はこの言葉を修飾するために、「有天下而不興というが、不興ということと有つということは、一句の中にあって意味の矛盾があるものだ」と述べている。

 

その後、政治思想が発達して、治国又経国などという言葉を用いるに至ったが、この治るといい、経すというのは乱れた糸のひとつひとつを揃える心であって、多少は精緻な文字であるとはいっても、それでももっぱら物質上の考えにもとづいて成り立っているものである。

 

また人民に対してはどのような言葉を用いているかというと民を御すと言い、または民を牧すという。御すとは馬を使い、牧すとは羊を飼うことであって、これは人民を馬羊のように捉えていた太古未開の時代の一般的な思想をそのまま反映したものである。

 

ヨーロッパでは国土を手に入れることを何というかと問うてみると、国を占領すと言うらしい。占領という言葉は<オキュパイド>、そっくりそのまま奪うという意味をも含んでいる。また人民に対しては<ゴーウルメ>、船の舵をとるという意味の言葉を使っている。支那で御す、牧すと言ったのと同じで、人民を一つのモノとみなすところから転じたものである。

 

支那も西欧諸国も、昔の人の国土、人民に対する言葉は、まったく粗雑な言葉を用いたものである。国土を縄張りにして、自分の領分とするという事を目的とし、人民をひとつのモノとみて、手綱をつけ舵をとって、乗り治めるというあしらいで、こういう言葉を使ったものと思われる。これは、(これらの国の)古の人は、現代のように政治学の精密な思想がなかったからであろう。

 

さて、我が日本は、この国土人民を支配することの思想をなんと言っているか。

古事記」に健御雷神をお下しになって、大国主神をおたずねになられた場面では「いましのうしはける葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国ぞといよさしたまひき」とある。

うしはく」といい、「しらす」というこの二つの詞をもって、太古に「人主の国土人民に対する働き」を名付けたものであった。

 

一方では「うしはく」と言い、もう一方では「しらす」と言うからには、二つの間に差があったに違いない。大国主神については「汝がうしはける」とのりたまひ、御子のためには「しらす」とのりたまうたのは、この二つの詞に、雲泥の差があったからだと思われる。

 

「うしはく」という言葉は、本居宣長の解釈に従うと、すなわち「領す」ということで、ヨーロッパ人が“オキュパイド”、と言い、支那人が“富有”、“奄有”と言うのと全く同じ意味である。これは、いち土豪の所作であって、土地人民を自分の私財として取り入れていた大国主神のしわざを表したものであるにちがいない。

正統の皇孫として、御国を照らし臨み玉ふ大御業は「うしはく」ではなく「しらす」と仰せられたのである。

 

その後、神武天皇の御称名を始国馭天皇(はつくにしらすすめらみこと)と申し上げ、また代々のご詔勅大八洲国知ろしめす天皇ととなえ奉ることを、公文式となされたのである。

畏れ多いことだが、皇祖伝来の御家法は「しらす」という言葉にあると言っても過言ではない。

 

国を知り、国を知らすというのは、各国に比較することのできる言葉がない。今、国を知り、国を知らすということをそのまま、支那、西洋の人々に聞かせたならば、その意味を理解できないだろう。

それは、支那、西洋の人々には国を知り、国を知らすということの示す意味合いが、元来、その脳髄の中に存在しないからである。

 

「知る」ということは、今の人々が普通に使う言葉のように「心で物を知る」という意味であって、内なる心と外たるものの関係を表し、内なる心は外のものに臨んで、鏡がものを照らすように「知り明からむ」という意味である。

 

西洋の論理法に従って解釈すれば主観的に無形の高尚なる性霊心識の働きを表したものである。古書で、「しらす」という言葉に「御」の字を当てたのは、当時の歴史を編纂した人が、適当な漢字が無いのに苦しんで、この字を借用したのであって、元来「知らす」という日本語の意味には適しない文字である。

 

こういうと、古の人にそれほど高尚な思想があるはずがないと非難する人もいるだろう。

そうはいっても諺に論より証拠とあるように、古典に「うしはく」と「しらす」と二つの詞を対比する形で使っている。また、「うしはく」と「しらす」という言葉の主格(健御雷神と大国主神)との間に玉と石との差があることを見れば、なおのこと議論の余地はない。

もし、違いがないのだとしたら、この一文を何と解釈することができるのか。

 

故に支那、ヨーロッパでは一人の豪傑が興起して、多くの土地を占領し、一の政府を立てて支配した征服の結果を国家と解釈することができるが、わが国の天つ日嗣の大御業の源は、皇祖の御心の鏡をもって、天の下の民草を「しろしめす」という意義から成り立つものである。かかる次第であるから、わが国の国家成立の原理は、君民の約束ではなく、一の君徳である。「国家の始まりは君徳に基づく」という一句は、日本国家学の開巻第一に説くべき定説である。

 

我が国の建国の原理は国知らすということである。その原理によって種々の素晴らしい成果をもたらした。

第一はヨーロッパの国々の歴史上の状態を尋ねるに大方の国は一人の豪傑が占領したものであって大いなる“個人財産”である。故に、国を支配することは民法上の思想に基づき、一つの財産をあしらいもって領分とし、その人々がこの世を去るときには民法上の相続を行い、子が三人いれば、その国を3つに分けてしまうのである。

 

彼の歴史上に名高いシャーレマン帝はその莫大なる版図を三人の子に分けたことで、一つはドイツとなり、一つはフランスとなり、一つはスペインとなった。

この相続がヨーロッパ大陸の大乱の種を蒔いたと言えるのではないか。

モンゴルの相続法も同様であって、元の大祖は広大なるアジアの土地を4人の子に分けて支那の一部、モンゴルの一部、インドの一部、ペルシャの一部と切れ切れにしたことは歴史にみえることだ。

 

これはヨーロッパでは珍しくないことで二百年前まで行われていたが、オーストリア帝の諸邦各国との条約に一国を相続するのは一統の子孫に傳えるべきものにして幾多の子孫に分割すべきものにあらずということを初めて約定した。

これを彼の国の学者は学理様に主張して古は私法と公法との区別を知らず、国と家との区別を知らず、家の財産相続法を以て国土の相続に混同していたものであるなどと言っている。

 

我が国では公法私法などという学理論の有無に拘わらず、建国のおのずからの道において天日嗣の一筋なることは自然に定まっており、二千五百年前より、この大義を誤ったことがない。神武天皇の御子は4人いらっしゃったが、嫡出の綏靖天皇に御位をお譲りになられて他の3人の皇子たちには国土を分け与えることもしなかった。

 

ヨーロッパ人が二百年前に辛うじて発明した公法の区別は、我が国には太古より明確に定まっていたことで、皇道の本質であると言える。これは何故かといえば即ち我が国をしらすという大御業は、国土を占領することと、おのずから公私の違いがあるからである。

 

第二にヨーロッパにおいては古の君臨の事業を一人の私物私法としてみなすが故に君位・君職に関する経費については君主個人のもとに財産が集まることで、その費用を支出していたが、その後国費がかさむにしたがって、はじめて人民に調達金を命じ、金銭を献納させ、主君の領地からの歳入不足を補った。

これがヨーロッパの租税の始まりである。

今も現にドイツの中の小国には、君主の家の歳入が不足するにいたって、はじめて徴税ということを法律にした国さえある。

 

我が国の君道はこのような狭い道ではなく、国知らすという一大道理であることは最初から明らかであるため、君位君職に関する経費は全国に分け、負担させて、人民の義務として納めることとした。

ヨーロッパの租税は元来、約束承諾によって成立したものであり、我が国の租税は君徳君職のもとで暮らす人民の義務であると言える。

 

以上のように述べた東西の間の違いは何がそうさせたのかといえば、これは偶然の結果ではない。いずれの国の歴史も千年の後の変遷は千年の昔に生じているものである。

私は太古の歴史を歩いて、こじつけの説をつくることを好むものではない。

とはいえ、この国を「うしはく」といい、「知らす」ということの違いに至っては、作り話ではないことは明文事実であり、また二千五百年来の歴史上の結果が証明し、他の国と全く雲泥の違いがあることは誰一人として否定できないだろう。

 

そもそも我が国の万世一系は畏れ多くも学問のように論ずべきものではないとはいえ、その最初に必ず一つの原因があることに疑いはない。

いま、何度もいうようで恐縮だが、最後に一言、結論を言わずにはおれない。

 

畏れ多くも我が国の憲法はヨーロッパの憲法の写しにあらずして即遠つ皇祖の不文憲法の今日に発達したものである。

 

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