『梧陰存稿 人に自尊自卑の性あるの説』を読む ~過ぎたるは及ばざるが如し~ #井上毅 #梧陰存稿
『梧陰存稿 人に自尊自卑の性あるの説』を読む ~過ぎたるは及ばざるが如し~
『人に自尊自卑の性あるの説』
本論文は後に『如蘭社話』後編第三巻(大正二年九月十五日刊)に収録。
自尊自卑の性とありますが、主として自卑の心に関する井上毅なりの考え方が提示されています。
自卑の心、すなわち自らに欠点があると感じる心、自らの社会には至らぬ所があると認識すること、それ自体は謙徳であり、進歩のもとであり、決して悪いことではない。
ただし、自卑の心は「利用すべきものであって、害用してはならないものである」と述べます。
黄金世界をどこに求めるのか。中国は古代に、インドは冥界に、西洋は未来に、そして日本は諸外国に求めるきらいがあると、井上毅は指摘します。
現世に安住していては、そこに進歩は無い。
かといって、黄金(世界)に捉われ過ぎては、現世の良さが損なわれるのではないか。
井上毅は奈良・平安時代を例に挙げて、その過ぎたる様を批判していますが、実は当時の官民問わずの急進的な西洋化、欧化主義に警鐘を鳴らす気持ちもあったのではないかと思わずにはいられません。
また黄金世界を諸外国に求めるきらいがあるのは、今現在の日本の姿を見ても、変わりがないように思えます。
ローレンツ・フォン・シュタイン博士は、「歴史にこそ無限の勢力資源がある。」と述べたと言われています。(by『シュタイン国家学ノート』より)
憲政史家の倉山満先生の言葉を借りれば、
「文明という横軸を乗り越えつつも、歴史という縦軸から発するものを再確認する。その積み重ねによって、変わりゆく伝統の中で国家を守り、歴史を紡いでいく。これこそが先人たちが身をもって実践してきた保守の態度です。」
となろうかと思います。
よりよい社会の実現のためにこそ、歴史を知り、伝統に心を配ることが必要なのではないでしょうか。
PS:なんだか『倉山満が読み解く 足利の時代─力と陰謀がすべての室町の人々』 の書評で書いた内容と通底するテーマになったような気がします。
興味ある方は、こちらもご覧になって頂ければ幸いです。
(書評はコチラ)
『倉山満が読み解く 足利の時代─力と陰謀がすべての室町の人々』
『人に自尊自卑の性あるの説』(意訳)
人類の万物の霊たる特徴として、その固有の高尚なる性質として、人々に自尊の天性を必ず持っており、同時にその反動としての天性、自卑の天性を必ず持っている。
自卑の性質は、人々自身が、自分に欠点があると感じるという個性、パーソナリティのことで、すなわち謙徳とも言えるすべての向学進歩の要素である。
この天性の映し出すところとして、人々みずから、自分たちが生活する社会が不十分であることを認識し、一転して、他に至善円満の人類と至善円満の社会があることを想像するに至る。
釈迦は尤も自尊を持っている人であるため、己の生活する社会を不足だとする感じることを描き出して、天地欠陥世界と述べた。
世の古今を問わず、国を問わず、書籍および現在の事実に徹するにおおよそ人類というものを裏面からみたならば、自尊自大なる積極の性格とまた自謙自屈なる消極の気習とを併存させているのは、これもまた一種の奇妙な現象というべきだろう。
それゆえ、ある人により、ある国によっては、この両極端の癖習の傾きの程度に厚薄深浅の差があるだけでなく、さらにまた種々の奇異なる状態を現出させる。
支那人は自ら、己の欠点と己の生活する社会の欠点と感ずるに、古代に至善円満の人物と至善円満の社会があることを想像する。
それは支那の文学がはやくに発達し、古代のことを記録した歴史家が優美で厳かなる文章をもって巧みにその人物および社会を書き記したために、後世の人は、その文章の眩さに誘惑されて古代に黄金世界があり、真理があると想像したことによるものである。
このように、古代に至善円満の世界があると想像するがために、「古を好む」といい、「古を尊ぶ」といい、学問なり、政治なり、百般の事について、すすんで古代の状態に遡ることを目的とし、自らの生活する社会を見下して澆季(乱世、世の末)とか、あるいは叙世末運だと盛んに言い立てることに至る。
又自ら、支那の古代に黄金世界があることを信じているために従い、支那という国の自尊他卑の風潮をも強盛にさせている。
インド人は現在社会をもって欠陥世界とし、冥界に至善円満の世界があることを想像し、開祖マホメットもまた同一の思想をとった。天堂浄土の説がこれである。
近世の哲学者たちは、自然の進化によって漸次に発達し、今日はようやく文明の区域に初歩を進めたことをもって未来に至善円満の世界に到着する希望があることを主張する者がいる。この説は未来来世に黄金世界があることを想像している。
朝鮮人の著述の書を読むに高麗の末、支那の文学がひとたび高麗に入ったときから朝鮮人の思想は起こって皆支那を崇拝して文明極盛の国としてこれを模範とし、これに追従模倣するに余念がないかのようだ。そのため、裏面よりその国の歴史によって観察するときは朝鮮という国は前後に分けて、切り離すべきである。
支那の文学が未だ朝鮮に入る以前は野蛮ながらも高句麗は一つの強大国になるという意思を失っていなかったが、支那の文学がひとたび入った後は一転して、まったく一つの文弱国となり果ててしまった。
足下のわが国の史籍を見るに古代、純朴な民の気風がようやく開けようとしたときに際し、隋・唐朝の文学が仏法とともに輸入したときは、一国を挙げて異常の賛歌をもってこれを迎え、一人、二人の聡明な人物がこれを唱導し、民衆が雷同し、その勢いは快流の如く、ほとんど自らの国あることを忘れて、文学政治風俗百般のことは皆、海を隔てた西土を模倣して、これを彷彿させることを望んだ。
この時の人の思想は、国語国文を廃してゆくゆくは全くの漢語漢文に変化させようと試みたようなものである。その証拠に語り部の語り伝える古代の遺事を不充分な漢文をもって翻訳編纂して正史として著し、そのため奈良の倉庫に残りたる天平年間の古文書の負債の証文、納税の受取官吏の病気届に至るまで、みな漢文で書かれていることからもわかる。
政治改革は非常に急激なかたちで施行され租税戸籍軍団の法はみな隋唐に模倣したようだ。中には隋の口分田をまねた班田の図が存在するということを見るにつけ、山川原野が錯綜するのもお構いなしに幾何模様に分区すること碁盤の目のようであり、そして人別にこれを配当したようである。
到底、実際に行われたとは思えないが、史籍の記載するところによればこれを全国的に実施したことで間違いないようだ。書紀に大宰師(大宰府長官)より上った奏文に班田の制は九州では実施されなかったようであるが、兎に角一時はこれを断行せんと試みたようである。その時の人民の苦情は、想像を絶して、なお余りがある。
民間の風習は正月の七日七草の粥より七月七日牛女の祭りに至るまで年中行事は大抵皆、呉越の風習を模倣し、都であろうが田舎であろうが隅々まで行われたものであるとみえ、現に今日までも残っており、殆ど我が国の古代以来の固有の風俗であるかのように思われる。
大化の改新はわが国の文明の初歩として進歩の階梯であることに疑問の余地はないが、他の一方からみれば、政治上には国費が疲弊し、戸口が凋亡し、民心はバラバラになり、士豪が勢いを得て、ついに武門の世となる原因となり、文学上においては固有の優美なる国語を錯乱させ、決して企ててはいけない他国の文を模倣しついに一種異様、奇怪な文体を編成し、千年間、世のあらゆる史籍及び著作をして、ほとんど、見えるはずの光来を無くしてしまった。
「そうはいっても今日に至り、冷眼を以て論評する立場のであれば、当時の得失を公平に判断すべきだ」とは言っても、試しに身を当時において一つの時代の潮流の中に立つものと仮定したとしても、誰かあえて興論に逆らい、衆説を干して、不屈の説をとり、後世の定論を待つ者がいなかったのだろうか。
このような場合において人智の薄弱であることは慨歎にまさる者はない。
なお、これのみならず最も奇怪なのは臣子の大義名分を忘れて唐の朝臣となって、自らの栄達とした阿倍仲麻呂がいた。那須国造の碑には、永昌という唐の年号を用いている。(永昌は朱鳥の二文字が歴滅したのを後世の好奇の人が改作したものであるとの説もあるが、私は現地に行って、その碑石を見るに、そのような跡があるようにはみえない。)
銅燈臺銘として有名な橘の逸勢の書には唐の諺を避けて丙の方角に景(造園)に作った。
この類によって見れば、当時の君民の思想を迷路の中に導いたのは博識聡明をもって自認していた文学者たちの罪に、その大部分があると言わざるを得ない。
今、虚心にその原因となるところを探れば、これは皆、人の性、自己の欠点を感じる霊覚より生じ、歩みをとして、その極点に趨りし者である。
又、人世永遠の標準により観察すれば、これも社会の進歩の一つの駅路にして、当時の人民は、この自然の運歩に支配されたものに過ぎず、ただちに一人、二人の罪ではない。
げんにこれを略説するに、種々の国民が、あるいは古代に黄金世界を求め、あるいは冥界にこれを求め、あるいは未来にこれを求め、あるいは外国にこれを求めるのは、皆人類自然の性により来た想像力の作用によって、変化の顕象を成すものである。
近来、西洋には絵画にかいた地獄または浄土と同じように書を記して、空想の栄土黄金世界の伝説の地を映し出して自らを慰めるものもいる。
これらは自己の社会の欠点を感ずる性癖の極みというべきであろう。
自卑の性は謙徳であり、進歩の要素である。これは利用すべきものであって、これを害用してはならない。