グローチウス著『戦争と平和の法』 平等者間の法と不平等者間の法 #グローチウス #格言 #戦争と平和の法 #国際法
法は行為の属性として考えられ、而して平等者間の法と不平等者間の法とに分けられる
本書に「戦争の法について」なる表題を附したわけは、(前にも述べたやうに)まず第一に、何等か正しき戦争があるか、また戦争においていかなることが正しいか、ということを究明するにある。
何故ならば、ここに使用している法(ユス)なるものは、正しきもの”ユスツム”なるものに他ならないからであり、しかもそれは、積極的というよりは、むしろ消極的の意味であって、法は不正なるものではない、という意味なのである。
しかるに、理性を用いるものの社会の本質と相容れざるものは不正なるものである。
かくてキケロは自己の便宜のために、他人より奪い取ることは自然に反すると言っており、且つこれを証明するために、彼は万一かかることが惹起したならば、人間の社会および共同体は必然的に破壊されてしまうであろう、といっている。
フロレンチヌスは、人が他人に対して奸計を用いることは罪悪である、けだし自然は、我々の間に一種の血縁関係を作っているからである、と言っている。
セネカは曰く「身体の各部分は互に調和している。けだし個々の部分が維持されることは、全体に関係することであるからである。
同じように、人間は結合体のために生まれている故に、相互に助け合うのである。何故ならば、社会は、それを構成している各部分の、相互の愛と保護によってのみ安全に存在し得るからである。」と。
更にその社会は、兄弟の間、国民の間、友人の間、盟友の間における如く、不平等ならざる社会もあり、また、父子の間、主人と奴隷との間、王と臣民との間、神と人間との間における如く、不平等なる―アリストテレスのいう優越性に基く―社会がある如く、互いに平等に生きているものに妥当する正しさと、支配する者とされる者を、かかるものとして考える場合に、彼等に妥当する正しさとがある。
予に誤りなしとすれば、後者を不平等者間の法と呼び、前者を平等者間の法と呼ぶことは至当であろう。
一又正雄訳『戦争と平和の法 第一巻』(1989年、酒井書店)