書評『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』 反面教師としての近衛文麿とバカでマヌケな戦前の政治からみる「知性の3段階」 #倉山満 #宝島社 #歴史 #日本史 #人文 #思想 #社会

書評 倉山満著『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』

反面教師としての近衛文麿とバカでマヌケな戦前の政治からみる「知性の3段階」

 

 

月1ペースで著書を出されており、「月刊くらら」と化している憲政史家の倉山満先生。 なんでも11月に出版した『工作員西郷隆盛 謀略の幕末維新史』は4刷が決定したのだとか。

しかも『工作員西郷隆盛』も含め、6冊連続重版出来

本を出すペースも凄まじいですが、その度に売れているというのも本当にスゴイですね。

 そんな倉山先生の「月刊くらら」2017年12月号に当たる本著は、1910年代からの国際状況と日本の政治状況および、その代表的な人物としての近衛文麿という存在を描くことで、「日米が開戦に至ったその理由、真の戦争責任はどこにあったのか」を問う内容になっており、本書もまた濃密な内容の一冊となっています。

 

■「日米開戦は経済のブロック化が主因」は本当か

日米が開戦に至った背景として諸説あろうかと思いますが、平成27年8月14日に公表された戦後70年談話によれば、

  • 経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。
  • 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。

とあり、”経済のブロック化が戦争をもたらした”というのが現在の政府公式見解となっているようです。ですが、本当に「経済のブロック化」によって戦争がもたらされたのでしょうか? 

一般に経済のブロック化は「資源を持てる国」(米英ソ)と「資源を持たざる国」(日独伊)という対立関係を生み出し、それがゆえに戦争を引き起こしたと説明されます。

とはいえ、そういうわりには、(良くも悪くも)真珠湾攻撃によって初戦は連戦連勝だったにも関わらず、日本が資源を獲得し、継戦能力を向上させたというような話は聞きません。

アメリカが石油を売ってくれなかったからだとしても、当時の日本が必要としていた石油量はインドネシアからの産出量だけで十分賄えるものだったとされています。

 

そうなると当時のインドネシア”オランダ”の植民地です。また近隣でいくと”イギリス領”ブルネイからしか石油は出ません。 オランダやイギリスと一戦交えることになったと言うのであれば(実際にそうなりましたが)合理的な説明がつきますが、アメリカと戦争をする理由にはなりません。 

 

2017年の今年になって邦訳出版され、話題となっているハーバート・フーバー元米国大統領の大著『裏切られた自由』を読んでも、経済のブロック化云々という話は全くと言っていいほど登場せず、むしろ計画経済、経済的全体主義の蔓延による弊害が指摘されており、第二次世界大戦の発端としてイギリスとドイツが対峙することになった直接のきっかけも

独ソ不可侵条約あるいはポーランドへの英仏の独立保障といった一連の動きが、戦争の勃発、その後の戦災による破壊を生んだ」(同書341ページ)

と、純粋に安全保障の面から端を発しているとされています。

 

 

実際、ポーランドの独立保障で英独間で決定的な対立関係が生じるまでは、「ドイツの目は東(ソ連)に向いている」「独ソの対決は不可避」というのが各国首脳の共通した見解だったそうです。

どうやら、「経済のブロック化」、「持てる国VS持たざる国」云々といったものが真の開戦理由、少なくとも唯一の開戦理由というわけではなさそうです。では一 体、日米が戦争に至った”本当の理由”とは何だったのでしょうか?

 

 ■日米開戦の本当の理由は「バカでマヌケだったから」

いったいなぜ日本は戦争しなければならなかったのか?その答えは、当時の日本の政治家、指導者層が「バカでマヌケだったから」です。

なんとも身も蓋もない答えですが、事実なので仕方ありません。

 

そもそも、日露戦争に勝った後の当時の日本は東アジア最強の国であり、滅びようがないほど強い国でした。「ちっぽけで弱い日本が強くて巨大なアメリカにケンカを売った」わけではないのです。

実際、1907年の「協商の年」と言われた当時の国際状況では、見事なまでに日本だけが安全地帯です。(本書18ページ参照)

日露・日仏・英露の3つの協商が結ばれたことによって日英同盟と英仏同盟が結び付き、見事なまでに日本だけが安全地帯の国際状況を生み出すに至りました。

だったら、なぜ、強かったはずの日本は滅びるような愚かな失敗をしたのか-。

本当はそれこそが問題なのです。

 

ポジショントークしかできない、呆れた奴ら~知性の3段階~

本書を通して読み解けるのは、前述のとおりの日本の指導者層の見事なまでのバカっぷり、マヌケっぷりです。

本当にどいつもこいつも、自分の本籍地(帰属する組織)の利益代表、代弁者としてのポジショントークしかしません(怒)。

現在の政治においても「国益なんぞどこ吹く風」というような政党による政権運営がなされていましたが、戦前も同じではないかと目を覆いたくなるような悲惨な状況です。

唯一、ポジショントーク固執せず、真の国益を考える「右上」の穏健保守も左上、左下、右下に三正面作戦を強いられ、どんどん発言力を失っていきます。

 

エスタブリッシュメント(左上)と、アカ(左下)が相当紛れ込んだ革新官僚(右下)が長引かせ、戦線を拡大させた、支那事変。 次第に、「何のために戦争をするのか」どころか、「どうやれば戦争に勝つのか」「戦争目的、勝利条件は何なのか」すら議論されず、ただひたすら”日々の行政”として戦争を続けていくハメに陥ります。

 

勝利条件を考えずに戦う・・・。これほどバカで、マヌケなことは無いでしょう。ですがそれが、対米開戦に至った「真相」だったのです。なぜこのような事態に陥るのでしょうか?

ここでロバート・ギーガン著『なぜ人と組織は変われないのか』を参考にしたいと思います。 

同書によれば、「知性にも3つの段階がある」のだそうです。(環境順応型→自己主導型→自己変容型)

この「知性の3段階」の特徴を挙げると、

【環境順応型知性】

・周囲からどのように見られ、どういう役割を期待されるかによって、自己が形成される。

帰属意識をいだく対象に従い、その対象に忠実に行動することを通じて、一つの自我を形成する。

・順応する対象は、おもにほかの人間、もしくは考え方や価値観の流派、あるいはその両方である。

 

【自己主導型知性】

・周囲の環境を客観的に見ることにより、内的な判断基準(自分自身の価値基準)を確立し、それに基づいて、まわりの期待について判断し、選択を行なえる。

・自分自身の価値観やイデオロギー、行動規範に従い、自律的に行動できる。

・自分の立場を鮮明にし、自分になにができるのかを決め、自分の価値観に基づいて自我の範囲を設定し、それを管理する。これを通じて一つの自我を形成する。

  

【自己変容型知性】

・自分自身のイデオロギーと価値基準を客観的に見て、その限界を検討できる。

・あらゆるシステムや秩序が断片的、ないし不完全なものなのだと理解している。

・これ以前の段階の知性の持ち主に比べ、矛盾や反対を受け入れることができ、ひとつのシステムをすべての場面に適用せずに複数のシステムを保持しようとする。

・一つの価値観だけいだくことを人間としての完全性とはき違えず、対立する考え方の一方に与するのではなく両者を統合することを通じて、一つの自我を形成する。

となるそうです。

さらに「環境順応型知性」に関する記述を詳細に伝えると、次のように書かれています。

環境順応型知性の持ち主は、職場でどのように情報を発信・受信するのか。あなたの知性がこのレベルだとすれば、発信する情報は、ほかの人たちがどのような情報を欲しているかというあなた自身の認識に強く影響を受ける。集団思考(グループシンク)はその典型だ。 

集団思考は、集団的意思決定の場でメンバーが重要な情報を口にしないときに生まれる。人々がそのような態度を取るのは、たとえば「その計画が成功する確率はほぼゼロだとわかっているけれど、リーダーが私たちの指示を欲しているらしい」と思うからだ。

集団思考に関する初期の研究の一部はアジアを舞台にしていた。それらの研究では、意思決定の場で自分の意見を言わなかった人たちが、リーダーの「メンツ」をつぶしたくなかったのだと説明した。

リーダーに恥をかかせないためには、会社が失敗への道を突き進んでも仕方がない、というわけだ。

(中略)

アーヴィング・ジャニスとポール・ハートの研究により、日本や台湾だけでなく、アメリカやカナダでも強力な集団思考が見られることが明らかになった。

この種の思考は、文化ではなく、その人の知性レベルが原因で生まれるものなのだ。 

環境順応型知性の特質は、情報をどのように受け取り対応するかにも影響を及ぼす。 このレベルの知性の持ち主にとっては、重要人物の意向の反しないことと、好ましい環境に自分を合せることが、一貫した自我を保つうえで大きな意味をもつ。 

そのため、情報にとても敏感で、情報の影響を受けやすい。受け取る情報はたいてい、言葉で表現されるメッセージだけにとどまらない。ときには、相手のメッセージの裏の意味をくみ取ろうと神経質になるあまり、メッセージの送り手が意図した以上に強い影響を受ける場合もある。  

その結果、リーダーはしばしば、どうして部下が「あの言葉をこんな風に解釈するのか?」と驚き、戸惑うことになる。情報の受け手のアンテナが歪んでいれば、実際に届く情報は送り手の意図と似ても似つかないものになり兼ねない。

 この環境順応型知性に関する記述を見るにつけ、「当時の政府中枢を担っていた政治家たちも、この知性レベル1の「環境順応型知性」だったのではないか」と思わずにはいられません。

近衛文麿という男 

そんな当時の政治状況の中、三度に渡って内閣を組織し、数々の決定的な場面で、決定的な役割を担ってきたのが近衛文麿でした。

血筋、教養、知識、文才等々、その資質自体は紛うことなき怪物政治家、怪物思想家の名にふさわしいものであり、近衛自身も左上・左下・右上・右下の4つの思想全てを止揚アウフヘーベン)していたつもりだったのだそうです。 ※アウフヘーベン・・・あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。

 

 おそらく本人の自己認識としては「知性の三段階」で言うところの「自己変容型知性」であったということなのでしょう。それだけの教養も思想も知識も身に付けていたのですから。

ですが、実際は、その時々に応じて各思想グループの主張を代弁するだけの「環境順応型知性」だったのではないでしょうか。

 

ある時は親アジア主義者、またある時は親軍部、ある時は親共産主義者といった具合に「左上」にも「右下」にもいい顔をするというのが、近衛文麿の思想の実体でした。

だからこそ、「自己変容型知性」として髙い次元からアウフヘーベンしていたつもりなのに、ゾルゲ事件によって、実は自分も他の人間と同じ「環境順応型知性」だった、「同じ穴のムジナ」だったのだという現実がよほど屈辱的だったのか、俄然、日米開戦回避に向けて精力的に活動し始めます。

 

結果的には、交渉相手となるべき米国大統領、フランクリン・ルーズベルトも近衛に負けず劣らずの”政治的狂人”であったが故に頓挫してしまいましたが、「もう少し早く、近衛が目覚めてくれていたならば」と残念でなりません。

 

 ■戦前と変わらないバカでマヌケな日本の言論、政治状況

戦前の日本の思想、政治情勢がいかにバカでマヌケだったのかを思い知らされる本書ですが、ではその一方で現在の日本の姿はどうでしょうか?

  • 北朝鮮有事、半島有事という危機が眼前に広がっているにもかかわらず、相も変わらずモリカケ問題に終始し、挙句の果てには「安倍総理が北にミサイルを撃たせている」とまで言う、”何でも安倍のせいダ―”の野党・マスコミ。
  • 息をするように「増税」を唱える、「一億総カツアゲ社会」の実現を目論む財務省内の増税原理主義
  • ”経済における死の病”と言われるデフレへ再び日本を陥れたいと渇望し、”ハイパーインフレがー”と声高に唱える、日銀プロパー、出口論者。
  • ヤクザと見間違えるような外見の脂ぎった中年オヤジや老人が拡声器片手にがなり立て、君が代を斉唱する、脊髄反射するしか能のない、単細胞のエセ保守

正直言って、戦前の状況を笑えないのが現在の日本の政治状況なのではないでしょうか。

先の大戦の痛苦な反省をしなければならない」というのであれば、何物にも先んじて、当時のバカでマヌケな指導者層(左上)の戦争責任を問う必要がありますし、そこから何も学んでいないのだとしたら、現在の日本の政治というのも、同じようにバカでマヌケであるとの結論を導かざるを得ません。

 

■近衛になるな!大久保を目指せ!

ここまで、散々、戦前の当時の政治状況、現在の日本の政治状況をこきおろしてきましたが、その一方で、はたと気付かされることもありました。

それは、「自分自身もバカでマヌケだった戦前の日本の政治家たちと”同類”なのではないか」ということです。

 

もちろん、本書を読んでいるときは、自分自身は自己主導型知性、自己変容型知性のつもりで

「戦前の指導者層はなんてバカでマヌケなんだ」

ポジショントークしている暇があったら、ちゃんと国益を考えろ!」

と思いながら読んでいましたが、現実の自分自身の考え方や行動を振り返ると、とても彼らを批判できるほど立派なものではありませんでした。

 

周囲の何となくの雰囲気に流され、自分の意見を言わない。 発言するときは忖度しまくり。

周囲の見る目がやたら気になる。そのくせ自分のポジションや給料、自分自身の将来像には関心があっても、他者のことには無関心。

会社の未来を考えるのは経営者の仕事であって、従業員の仕事ではないと考える。

要するに「当事者意識が無い」ということです。

 

戦前当時のポジショントークに終始した、お役所仕事しかしていなかった連中と全く同じです。本当に恥ずかしい限りです。

では、どうするか。

真摯に学んで、自らの「知性の段階」を上げていく以外ありません。近衛文麿では日米開戦を回避できませんでしたが、「もし大久保利通が首相であれば対米開戦は避けられただろう」と倉山先生は指摘します。

そして両者を分ける決定的な違い、近衛文麿に欠けていた最も大事な資質が「未来への意思」なのだそうです。

 

ここで言う「未来への意思」とは「当事者意識」、すなわち「十年後、二十年後の世界で、国や社会、自分の属する組織がどうあるべきか、自分自身で描いたビジョンを持っているのか」ということではないでしょうか。  

大久保利通も、西郷隆盛も、本来は下級武士の出であり、日本どころか藩政にすら責任を負うべき立場ではありません。そんなことせず、半径五メートルの世界で細々と暮らしていたとしても誰からも批判を受ける立場ではありません。それが彼らの領分なのですから。

 

ですが、彼らはそうはしませんでした。

「幕府や公家など時の権力者、支配者層が役に立たないなら、自分たちが立ち上がるしかない」と当事者意識をもって立ち上がったのが明治の元勲たちだったのではないでしょうか。

 

いざとなったら、本当に解決すべき問題なのであれば、「それは自分がやる役目ではない。○○がやるべき仕事だ」などと、お役所仕事の視点で他人に押し付けている場合ではないということです。

  

永遠にいたるには、明日への一歩から始めてはならない。 積み重ねでは永遠に至らない。

「大きな一歩」を考え、そのうえで「今日、何をするか」を問わなければならない。

 重要なのは、言葉の美しさではない。あなたがあげる成果である。

byドラッカー『経営者に贈る五つの質問』より

  

戦前当時のバカでマヌケな政治の状況、”お役所仕事ぶり”を知ることで「こうはなりたくない」と思わせ、より一層、「明治の元勲たちから当事者意識を学び、大きな一歩を考え、物事に取り組むことが出来るよう、日々己の知性を高めていかなければ」との決意を新たにさせてくれた一冊です。

おススメです!