ビジュアル増補版 書評『国際法で読み解く戦後史の真実 文明の近代、野蛮な現代』 決闘って何?ヨーロッパ法精神の原風景と三河武士団 #倉山満 #PHP研究所 #国際法 #世界史 #歴史 #決闘裁判

書評『国際法で読み解く戦後史の真実 文明の近代、野蛮な現代』

倉山満著 PHP研究所

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213022144j:plain

 

決闘って何?ヨーロッパ法精神の原風景と三河武士団

 

■概要

嘘らだけシリーズ』でおなじみ倉山満先生の『国際法で読み解く世界史の真実』の続編!

前作『~世界史の真実』は国際法の成立から崩壊までをローマ帝国から第二次世界大戦の始まりまでを描いたものでした。

その姉妹本にあたる本書は、第二次世界大戦以降から現代に至るまでの現代史をつぶさに書き上げることで、

  • アメリカ、ロシア、中国という、”国際法の何たるかを理解しない国”よって、いかにして国際法は踏みにじられ、世界は野蛮化していったのか。
  • 野蛮化した国際社会の中で戦後日本はどのような道を歩んできたのか。

を論じた一冊であり、特に戦後の国際社会を読み解く上でも、日本の姿を語る上での欠くことのできない要素として国際法の概念が随所に用いられています。

ここでは、本書はもちろんのこと、倉山先生の他の著書でも国際法に触れる時には、必ずと言っていいほど登場するフレーズである国際法の原点は中世ヨーロッパにおける”決闘のルール”である」というフレーズに着目して考察を加えてみたいと思います。

■決闘って何?~国際法の原点、ヨーロッパ法精神の原風景を探る~

あらためて、本書はもちろんのこと、倉山先生の他の著書でも国際法に触れる時には、必ずと言っていいほど登場するフレーズといえば、国際法の原点は中世ヨーロッパにおける”決闘のルール”である」というフレーズでしょう。

では国際法の原点は決闘のルールであるならば、中世ヨーロッパにおける”決闘”とは一体どういうものだったのでしょうか。

またその”決闘”が表現していた当時のヨーロッパ人の精神世界とはどのようなものだったのでしょうか。

知っているようで実は知らない”決闘”のことがわかれば、国際法への理解もより深まるのではないかと思い、『帝国憲法の真実』でも参考文献として掲載されている山内進『決闘裁判-ヨーロッパ法精神の原風景』を手に取ってみました。 

 

■決闘の変遷

決闘の変遷①~神の裁き~

決闘の起源は古く、キリスト教が広まる以前の古代ゲルマンの時代に遡ることができるそうです。

タキトゥスが記した『ゲルマーニア』には、決闘の原型とも言うべき慣習についての記述があり、ゲルマン諸族の間には敵族の捕虜と自族の戦士を戦わせ、その結果を“神意”と見立て、戦争の行く末を占うという慣習があったのだそうです。

この「勝負の結果とは神の判決である」とみなす考え方は、時代を経るに従い、当初の部族間(集団)の紛争から徐々に個人間の紛争においても適用されるようになっていきます。当時のゲルマン諸族の心理を『ローマ帝国衰亡史』で有名なキボンはこう記したのだそうです。

「この連中は勇者が刑に値し、臆病者が生きるに値するなどとは信じ得なかったのだ。係争が民事刑事のいずれたるとを問わず、原告あるいは告発者も被告も、いや時に証人すらも、合法的根拠を持たぬ相手からの生死を懸けた挑戦にさらされており、そうなった場合、自己の言い分を放棄するか、あるいは公開の決闘の場で名誉を維持するかを選ぶのが義務とされた。」

         

決闘の変遷②~神判としての決闘~

こういった世界観が定着していたところにキリスト教の教えが広まり、混じり合うことで決闘は、「決闘裁判」という”神判”に変貌していきます。

(ちなみに決闘裁判以外の”神判”は熱湯裁判、熱鉄裁判、冷水裁判。熱湯に手を入れて火傷をしたならば有罪、無傷なら無罪、冷水の中に身を投げて浮かんだら有罪、沈んだままなら無罪という類のものです。『決闘裁判~』では決闘裁判以外の神判についても詳しく記述されており、それはそれで興味深いのですが、話が逸れてしまうのでここでは省略致します。)

当時の中世ヨーロッパと言えば最先端の文明地域かと言えば決してそんなことは無く、血と暴力に彩られた”辺境の地”に他なりません。宗教勢力や王様、貴族が群雄割拠している状態であり、皆を従わせることができる集権的権力が不在の、まとまりのない野蛮な世界です。

とりわけキリスト教に代表される宗教勢力は「人を殺してはならない」と民衆に説くどころか、魔女狩り」「異端尋問」などと称して率先して人殺しを行っていた、あるいは(自らの手を汚さずに)国王や貴族に人殺しをやらせていた集団であったことは、最強の教皇インノケンティウス3世の「すべてを殺せ。主はすべてを知りたまう。」を思い起こせば、くららファンの方ならご理解頂けるのではないでしょうか。

そんな野蛮な世界の中で自らの権利や財産を守りたくば、どうすればよいのか。

奪われた時にどうすればよいのか。

手段はたった一つ、実力行使(自力救済。Fehdeフェーデとも呼ばれる)に訴える以外自らの権利を取り戻す術はないということです。

そんな実力行使に大義名分を与えてくれたのが「判決は神の裁きである」とする”神判”でした。

 

戦いの結果は神の裁きであり、神意である―。

神様が相手では、誰も文句が言えないのも当然です。

確かに生来のゲルマン諸族の世界観、価値観が根本にあるのでしょうが、決闘が神判として受け入れられたのは、むしろ結果に対して誰にも文句を言わせないための”生存のための知恵”であったようにも思えてなりません。

(当時の決闘裁判の様子を描いた絵画) 

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213025322j:plain

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213025304j:plain

決闘の変遷③~合法的自力救済~

”神判”となった”決闘裁判”はルール化され、裁判に訴えるための手続き、代理人(決闘士)を立てる場合の許可、男女で争うことになった場合の決闘方法(男は地面に掘られた穴に半身を埋め、片手でしか戦えないようにする)、決闘する場合の服装、使える武器、ルールを犯した場合の罰則・制裁方法などが定められ、中世ヨーロッパにおいては合法的な法制度、合法的な自力救済として確立されていきます。

 

※ちょっと笑えるイラストですが、これが正規のマニュアルだったそうw

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213025405j:plain

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213030448j:plain

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213030507j:plain

 

さらに注目すべきは「決闘の最中においても和解が可能だった」とされていることです。

イングランドを例に挙げれば、和解は戦いの始まった直後でも、形勢が明らかになった時点でも構わなく、和解のためには裁判官に罰金を支払う必要がありましたが、和解の内容は当事者に委ねられていました。不利な方は、当然、不利なかたちで和解せざるを得なかったでしょうが、このような和解のかたちがあったおかげで、イングランドでは決闘士が死ぬまで戦うことは殆どなかったのだそうです。

 

神判の名の下に決闘するだけでなく、裁判の内外で和解によって互いの面子を保ち、応分の利益を分かち合う。さらに和解の後に互いに何かを贈与することで、相互の絆を新たに作り上げるか、絆を回復し強めることも珍しいことではなかったのだそうです。

 

■自由と名誉、権利のための闘争

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180213032819j:plain

 

前述のように、まとまりのない野蛮な世界だった中世ヨーロッパ。皆を従わせることができる集権的権力の登場はフランスのリシュリューによる絶対王権の確立、その後の主権国家”の登場まで待たねばなりません。

とはいえ、まとまりがないということは、逆説的にいうと極めて自立的であったとも言えます。そして自立的であるが故に、皇帝や国王も、契約に基づいて、諸侯らと相互的な協力関係を形成し、維持しなければならない必要性に迫られます。 

この相互的援助関係のネットワークが封建制であり、「この土壌のうえに権力に頼らない自力救済の精神、自立と固く結びついた名誉を重んじる気風、自己責任に裏打ちされた自由主義が成立し、発展していったのだ」と『決闘裁判~』は論じます。

『決闘裁判~』の文中で引用されるモンテスキューオーストリアの歴史家オットー・ブルンナー、イェーリング『権利のための闘争』ワーグナーローエングリン』のワンシーンが、彼らの精神世界を端的に表しているのではないでしょうか。

一対一の決闘による証明は経験にもとづいたある理由をもっていた。

もっぱら戦士的であった国民においては、臆病はその他の悪徳を予想させる。それは、人々が自分の受けた教育に反抗したこと、名誉に敏感でなく、他の人間を支配した諸原理によって指導されもしなかったことを証明する。

少しでも生まれが良ければ、力と結びつくべき技巧についても、勇気と協同すべき力についても、他人の尊敬を重んずることに欠けることは概してないだろう。なぜなら名誉を重んじれば、名誉を得るために欠くことのできない事柄を生涯をかけて修練するであろうからである。

さらに、力、勇気および手柄が尊敬される戦士的な国民においては、真に憎むべき犯罪は、狡猾、奸策そして詭計、つまり臆病から生まれる犯罪なのである。

モンテスキュー(『法の精神』第6部第28編第17章)

名誉がどうして専制君主のもとで容認されるであろうか。それは生命を軽んずることをもって誇りとする。そして、専制君主は生命を奪いうるという理由によってのみ力をもつにすぎない。どうして名誉が専制君主を容認できるであろうか。

名誉は遵守される規則と抑制される気紛れとをもっている。

専制君主はなんの規則ももたず、その気紛れは他のすべての気紛れを破壊する。

モンテスキュー(『法の精神』第1部第3編第8章)

 

「(侵害された者の)名誉が報復を要求した。報復がフェーデや法廷における訴訟の目的だった」

「不正に耐え復讐を断念することは、名誉の喪失を意味した」

オットー・ブルンナー

 

ブラーバントの君たる権利は、しかと拙者に属するもの。されば、拙者は力のかぎり、この国を保護し戦いまする。何者であれ、拙者に帰属致したる国に指を触れんとするならば、その者は直ちにこの場にて、仮借なき剣の戦いをもて、拙者から権利を奪い取り、拙者を敗走させねばならぬ。 

争いには、容赦なき決闘により、即刻、決着をつけるべし。・・・ブラーバントが拙者のものでないなどと、誓いを立てて申す者とは、拙者はただちに戦って、時を移さず、そやつの手を斬って落としてご覧にいれる。・・・己が権利の主張に際し、証書、文書を盾にするなど、拙者は断じて好まぬ。

平らな羊皮に字を書くときは、勝手気儘を書くものぞ。

さようなものを相手にしては、拙者は裸にされてしまうわ。 

さらば高貴の公妃殿は、直ちに剣士を立てられよ。その者と拙者はここに戦い、決闘の結果如何に、ことの決着を委ねようぞ。

闘い勝った者こそが、われらの争いのもととなった、ブラーバントと呼ばるる国を、正当に継ぐと致そうぞ。

(平尾浩三訳「白鳥の騎士」『コンラート作品選』)

byザハセン公(ワーグナーローエングリン』ではフリードリヒ)

 ■国際法と決闘裁判

決闘裁判は、なによりも自力救済であることが主目的でした。それは、神と結びつきはすれども、神の介入を不可欠とはしない”不純な神判”でした。それゆえ、決闘裁判は、神の介入を求めることが禁止されたあとも、生き延びることができたのだそうです。

権利と名誉を自ら守りうること、それが正義であり、結果は後からついてくる-。戦うことによって自己の正しさ、権利を明らかにするという方式は、もともとキリスト教とは無関係にヨーロッパの慣習として存在していたことだったのです。

その後、ヨーロッパ各国の国内においては世俗的で公権力的な裁判制度が発達したことにより、自力救済色の強い決闘裁判は徐々に廃れていき、制度としての決闘裁判は19世紀に消滅しましたが、その自力救済の精神はアメリカの裁判に代表される”当事者主義”として生き続けているのだそうです。

そして当事者主義と同様に、もしくはそれ以上に決闘裁判の精神に受け継いでいるのが国際法です。

本書『国際法で読み解く戦後史の真実』や倉山先生の多くの著書では『戦争と平和』を著し、国際法の礎を築いたグロチウス「戦争とは、国家と国家による決闘であると考えていた」と述べられています。戦争も人殺しもなくならない。だからこそ不必要な残虐行為をやめさせようという発想が生まれたのだと。

ここで改めて強調しておきたいのはグロチウスは決して「戦争は神の命令による」とは考えておらず、「自力救済としての戦争」という点にのみ主眼を置いているということです。グロチウスは戦争の正当原因を防衛、物の回復、刑罰の3つとし、宗教的な意味での聖戦的要素を重要とはみなさず、その論拠に自然法を置いたのです。

無神論者ではないため神の存在は否定しませんが、戦争を正しいとする論拠は自然法から導かれ、自然法と神の意志は理論的に完全に切断されたのだとされます。 

自然法は不変であり、神ですらこれを変えることはできない」というグロチウスの言葉はこの文脈で理解されるのだそうです。

そして時代は経て、国際法の概念の理論化はさらに推し進められ、エメリッヒ・ヴァッテルが主権国家の平等性を基軸とした理論を展開。

「対等な主権国家相互のもとでは、一方が正しく、他方が不正であると決めることは出来ない」との論(無差別戦争論から、「刑罰として戦争」も否定され、戦争は単に紛争に決着をつける最終手段にすぎないもの、殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって終結するものとなります。

この結果、法の意味における”正しさ”とは、戦争の正義、正当原因ではなく、フェア・プレイを意味することとなり、そのフェア・プレイを定める規則が交戦法規、つまり戦時国際法として成立していくのだそうです。

(※ここでは主に『正しい戦争という思想』(山内進・編)を参考にさせて頂きました。)

■日本が進むべき道 徳川家康今川氏真

本書『国際法で読み解く戦後史の真実』において、倉山先生は「日本が進むべきは“徳川家康の道”か“今川氏真の道”か」と問いかけます。

戦後日本は今川氏真でした。

氏真は、父の今川義元が信長に討たれたことを受けて、家督を継ぎます。しかし、蹴鞠や和歌に熱中した氏真は、国防努力をすることもなく、父の弔い合戦を行なう意思も見せません。要するに”自力救済”を放棄したのです。

今川氏真の描写を見るにつけ、倉山先生の「戦後日本と瓜二つではないか」との主張は、否定し得ない事実であるように思えます。

ならば、日本はこの先、未来永劫、今川氏真として生きる以外方法はないのでしょうか。

今からでも遅くはない、「徳川家康の道」に戻ることもできると倉山先生は指摘します。

確かにそれは今川、武田、織田、そして豊臣秀吉など、常に大国相手の忍耐の日々です。あらゆる理不尽に耐え、知恵を絞り、黙々と働き、富を蓄え、したたかに生き抜く。

何より、安全保障上の重要な同盟国の手伝い戦を命懸けで戦い抜くという、厳しい“茨の道”ではあります。

ですが、守るべき名誉も権利も自由も持たない”臆病者”との誹りを受けて、さらには現実の危機にも他人任せのままの国に何の意味があるのでしょうか?

「我々は恥ずかしい時代を生きている。」

倉山満著『帝国憲法物語』より)

 との言葉が改めて胸に突き刺さってくる思いです。

■日本が徳川家康になるための秘訣は三河武士団にあり!

最後に倉山先生は、日本が徳川家康になるための秘訣についても触れています。

それは、三河武士団です。

常に家康とともにあり、信長の手伝い戦でこき使われようが何をしようが、とにかく全力で戦い、獅子奮迅の働きをしてみせた三河武士団。家康が”茨の道”を行くための最大の武器こそが他でもない、この三河武士団だったのです。 

では三河武士団の強さの秘訣は何だったのか?

倉山先生は、その強さの秘訣は三河武士団が“訓令集団”であったことにあると述べます。

訓令集団の何が強いのか。

その詳細については倉山先生の別著『大間違いの織田信長で述べられていますが、端的に言えば、「支店長クラスの人間が本社CEOである家康が何を考えているのか分かっている」ということです。

ビジネス書の類では、この手の「トップの立場になって考えよう」というフレーズをよく見かけますが、言うは易く行うは難し。現実には実践するのが如何に難しいことなのかということは、会社勤めしている方のみならず、組織に属している方ならご理解いただけるのではないでしょうか。

「トップが何を考えているのか」というのは、そうそう簡単にわかるものではないからです。そもそも単なる一支店長あるいは平社員と、企業トップとでは、集まってくる情報が質・量ともにまるで異なります。自分の手元にはない情報、知らない情報があることを前提に思考しなければならないのですから当然といえば当然です。

「トップの考えなんてすぐに分かる」と思う方がどうかしています。

それでも、一人一人が自らに与えられた役割をこなしつつも、トップの考えを共有し、一つの方向性力を合わせて突き進むことが出来たならば、これほど力強いものはありません。

だからこそ、倉山先生は「一人一人が賢くなることが大事なのだ」だと本書で説いているのではないでしょうか。

 

これからの日本が今川氏真のままなのか、徳川家康となることができるのか。

それは、私たち一人一人の学びの中にあり、その先にこそ誰にも媚びることなく、卑屈になることなく生きていける国、”文明国”になる道が開けているのだということを教えてくれる一冊です。

 

おススメです!