書評『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 中世編』 #倉山満 #PHP研究所 日本から世界史を問い直す~”修羅の大地”ユーラシアと中世日本が貫いた積極的孤立主義~

書評『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 中世編』

倉山満著 PHP研究所

 

 

日本から世界史を問い直す~”修羅の大地”ユーラシアと中世日本が貫いた積極的孤立主義

 

 

■世界史がつまらない本当の理由

 「馴染みのない単語ばかりで覚えられない」、「つながりがよくわからない」、「イメージしづらい」・・・

「世界史がつまらない」というときに、よく耳にする理由といえば、このあたりではないでしょうか。

かくいう私もそうでした。

 

古代ローマギリシャ、キリスト生誕の話をしていたかと思うと、項羽劉邦が登場。隋・唐時代の中国の話になり、いつの間にやら十字軍が登場してきて、ルネサンスが起き、あっという間に産業革命が起きる。

そうこうしているうちに、3学期も終わりに近づき、さらに授業の進行スピードは加速。

アヘン戦争があって、ナチス・ドイツが現れ、米ソ冷戦が訪れる。

前後のつながりなんぞお構いなしに、かけ足で駆け抜けて終了。

 

こんな授業の進め方では世界史がつまらないものになってしまうのも当然なのですが、世界史がつまらない本当の理由は、授業の進め方や単語、登場人物への馴染みの無さに由来するだけではないようです。

 

なぜ世界史がつまらないのか。

その本当の理由は「学校で習う”世界史”は世界史ではない」からです。

 

■日本人が学んでいる「世界史」はニセモノ

日本の東洋史に偉大な足跡を残された不世出の歴史学者にして、チャンネルくららでおなじみ東洋史研究家、宮脇淳子先生の旦那様であった故・岡田英弘先生の著書『世界史の誕生』『日本史の誕生』(共にちくま文庫)よれば、日本における”世界史”とは西洋史東洋史を合体させたもの」に過ぎません。

 

西洋史にいたっては、一国一国の興亡盛衰を著述した”万国史”を、東洋史の正統史観(司馬遷の『史記』に由来する歴史観)に基づいて日本独自に焼き直しして出来上がったものであり、本来の西洋史が有している地中海文明キリスト教歴史観すら逸脱しています。

 

さらには、この「世界史」には「国史」に由来する日本史が含まれていません。

その結果、「日本抜きの世界を、日本の学校で、日本人が学習する」ということになってしまっているのです。

「これでは、まるで日本は世界の一部ではないかのごとくであり、日本の歴史は世界史に何の関係もなく、何の影響も与えないものであるかのごとくではないか。これでは、「世界史」で扱うべき事項の選択に、我々日本人との関連の観点が入ってこず、事項を増やせば増やすほど筋道の混乱がひどくなり、やたらと雑駁になるばかりなのは当然である。」

 という岡田先生の指摘ももっともです。

 

同様に、本書の著者である倉山満先生も前作『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 古代編』で、「日本人が学んでいる「世界史」はニセモノです。」と切って捨てます。

日本人が学んでいる「世界史」はニセモノです。

高校生になると、「世界史」の授業があります。しかし、あれは「世界史」の看板を掲げてあるだけで、本物の世界の歴史ではありません。お願いだから「中華と西欧」みたいに、看板を正しく書き換えてほしいと思います。それで悪ければ東洋史の一部と西洋史の一部の野合」みたいに、正確な表記にしてほしいものです。

 

東洋史とは何か。「中華様とその他の歴史」です。西洋史とは何か。「イギリス、フランス、ドイツを中心としたヨーロッパとその他の歴史」です。

 

地図を見てください。「中国、イギリス、フランス、ドイツ」など、人類のごく少数の人たちにすぎません。なぜ彼らが、人類の中心なのか。彼らが「自分こそ世界の中心である」と言い張り、それを真に受けた東洋史西洋史の研究者が鵜呑みにして、教えているからです。

 

だから、日本で教えられている「世界史」は、世界の歴史でもなんでもない、偏った歴史になるのです。

日本人が描く西洋史にかかれば、ロシアやアメリカの歴史などはマイナー分野です。ロシアもアメリカも、ギリシャ・ローマに始まるヨーロッパ文明を源とするという発想です。ロシア人やアメリカ人が勝手にギリシャ・ローマを崇拝するのはかまいませんが、なぜ日本人までそんな歴史観に付き合わねばならないのか。そもそも、ギリシャやローマなど、どれほどの文明だったのか。

 

東洋史家に至っては、周辺民族のことを「塞外」などと呼びます。まるで研究する価値がないかのような扱いです。

では、現在は中華人民共和国少数民族扱いされている満洲・モンゴル・回族イスラム教徒)・チベットが、そんなに価値のない人たちなのか。子供だって、ユーラシア大陸に大帝国を築いたチンギス・ハンがモンゴル人だったことは知っています。モンゴル人は中国の一少数民族ではなく、むしろ過去に偉大な歴史を持つ民族です。

 

イスラム教の理解を抜きにして、現在の世界を語るのは不可能です。西欧にも中華世界にも多大な影響を与えています。しかし、既存の東洋史西洋史の枠組みのなかで、イスラム教に正当な評価が与えられてきたでしょうか。

 

以上にことを並べてみただけでも、日本人が教えられてきた「世界史」が、いかにニセモノで、世界の歴史を知るのに不十分であるかがわかると思います。

 ■日本人が語り継ぐべき”本物の世界史”とは何か

 

では、ニセモノ、西洋史東洋史の野合に過ぎない世界史ではなく、”本物の世界史”を学ぶにはどうすべきか。 

岡田英弘先生は、「本当の意味の世界史はいまだに書かれていない」と指摘し、

「本当の意味の世界史を書くとなると、個々の文明の歴史の枠組みを超越した、新しい共通の枠組みを開発することが先決である」

との考えから、東洋史西洋史の矛盾を解決し、単一の世界史に到達する道として”中央ユーラシアの草原から見た世界史”、すなわち地中海世界とシナ世界を直接結びつけた、“十三世紀のモンゴル帝国から見た世界史”を提唱されました。

 

実際、私も岡田先生の著書(と言っても『世界史の誕生』『日本史の誕生』の二冊だけですが)を読んでみましたが、個別の事柄については賛否両論分かれるだろうなと思われるものの、「岡田史学」とも呼ばれる岡田先生の歴史観は非常に明快であり、論理的です。

倉山満先生も「血肉になるまで岡田史学を読みこんだ」のだそうです。(by岡田英弘編『モンゴルから世界史を問い直す』(藤原書店))

  

では、倉山先生が本書で語っている世界史も岡田史学に基づく歴史観が展開されているのかといえば決してそうではありません。  

倉山先生は前掲『モンゴルから世界史を問い直す』の中で「モンゴルで世界史が始まったとはまた違う世界史の定義を自分の中で作ることが大事だと思っています。」とも語っています。

 

むしろ、「岡田史学」を継承しながらも、まったく別の視点で描いた歴史観、すなわち「日本から世界史を問い直す」という視点に基づいて描かれているのが、この「誰も教えてくれない 真実の世界史講義」シリーズなのではないでしょうか。

 

そしてそれは「岡田史学」と異なる視点で歴史を描いたということだけにとどまらない、「モンゴルから見た世界史」と対をなす、併存可能な歴史認識としての「日本から見た世界史」が誕生した瞬間であるとも言えます。

 

■修羅の大地、ユーラシア

モンゴルから見た世界史、すなわち「岡田史学」で歴史を捉えてみた場合、どのような歴史が紡ぎだされるのでしょうか。

 

ユーラシア(Eurasia)はユーロ(Euro)とアジア(Asia)を掛け合わした言葉であり、ユーロ(Euro)の語源は、主神ゼウスに娶られた美しき王妃、フェニキア王の娘エウロペの名に由来し、アジア(Asia)は、フェニキア人がエーゲ海から西をエレブereb、東側をアスassuと呼んでいたことから「東」、「日の出」という意味を持つと言われています。※諸説あり

 

ですが、”美しき王妃”、”日の出”という名とは裏腹に、ユーラシアの大地は対立と抗争、支配と服従、略奪と蹂躙を繰り返してきた場所であり、そこで決定的な役割を果たしてきたのは、つねに草原の民、すなわち中央ユーラシアの遊牧民たちでした。

  

東アジアをみれば、中国の歴史は紀元前3世紀の秦の始皇帝の中原統一とともに始まり、最初の500年間の主役は秦・漢の中国人でしたが、4世紀初めの五胡十六国の乱を境に、北アジア遊牧民が主役の座に躍り出ます。この状態が300年続いたあと、鮮卑と呼ばれる遊牧民の手によって中国は再統一を果たします。これが隋・唐です。

 

その後、この鮮卑系の中国と競争して、次第に中国を圧倒し、最後に中国を呑み込んでしまったのは、中央ユーラシア草原の一連の帝国、トルコ・ウイグル・キタイ・金・モンゴルでした。そしてモンゴル帝国支配下のもと、元朝・明朝・清朝といったモンゴル化された中国が形成されます。いずれの場合も王朝が変わるときは、

 

1:新王朝の設立⇒2:功臣の粛清⇒3:対外侵略戦争⇒4:漢字の一斉改変と改鼠歴史書の作成⇒5:宦官、閨閥など皇室側近への跳梁⇒6:秘密結社の乱立と農民反乱の全国化⇒7:地方軍閥の中央侵入⇒8:1へ戻る

 

の繰り返しで、その過程においては国情が大混乱に陥ることも常で、人口が半減したり、5分の1以下になることもあったのだそうです。総人口が5分の1以下になるなんてもはや、それは「民族として滅亡した」と言ってもよいくらいです。

 

オリエント(中東)も同様です。紀元前の時代はアケメネス朝ペルシャがなり、その後、西のローマ、東の漢に伍する大国パルティアが栄えるなど、名実ともに文明の最先端地域の名を欲しいままにしていました。

ですが、時代を経るにして退廃していき、十字軍の侵略を受けるころには、その内情は相当腐敗していたようです。

アミン・マアルーフ著『アラブが見た十字軍』(リブロポート)はこう述べます。

「相当数の草原の戦士たちが、アラブあるいは地中海の文明とまったく結びつきがないのに、定期的にやって来て、指導階層である軍部に同化する。以来、アラブは支配され、抑圧され、ばかにされ、自分の土地にすみながらもよそ者になり、7世紀以降始まった自分たちの文化的開花を追求することができなかった。

フランク(※十字軍)がやって来たとき、彼らはすでに足もとがおかしく、過去の遺産で生きることに満足していた。

だから、この新たな侵略者に対し、ほとんどの面でまだ明らかに先進的であったにせよ、彼らの衰退は始まっていたのである。」 

と。

(余談ですが、『アラブが見た十字軍』では、「饒舌に尽くしがたい殺生を重ねて勝利を祝い、その上で、口先では崇めているといいながら、その聖都を荒らしまくったのである」と、正気の沙汰とは思えない十字軍の蛮行も描かれています。)

 

■大陸を席捲する遊牧民国家と大航海時代の始まり

モンゴル帝国の飽くなき膨張思考は、ヨーロッパ方面にも多大な影響を及ぼします。

そもそも、遊牧という生活形態では、平時に団結する必要はありません。むしろモンゴルの大草原は年間降雨量は東京の4分の1と非常に少なく、草の生え方がまばらであるため、一箇所に人口が集中すると家畜がすぐに草を食い尽してしまい、生活が成り立たないのです。せいぜい数家族が揃う程度が限界です。

 

そんな遊牧民が国家を成す契機となったのは交易と農耕民による中国統一でした。交易は遊牧民にとっても生活に欠かせない食塩や穀物を農耕民から入手するための重要な生活手段です。その取引相手である農耕民が中国統一を果たし、秦という国が出現したことで、交易における彼我の交渉力には雲泥の差が生じることになり、死活問題となります。

モンゴル草原に匈奴の最初の遊牧帝国が出現したのは、まったく中国に対抗する必要から遊牧民が団結した結果だったのです。

 

とはいえ、国家として団結するために人口が、それに付随しておびただしい数の家畜が一箇所に集中してしまうと、上記のように家畜の餌としての草がたりなくなります。

民が困窮しないように何かしらの手を打たなければなりません。

ここで遊牧民国家の帝国主義的本質が露わになります。

 

まずは何よりも遊牧民国家とは、部族連合によって成り立っているものでした。

ハーンがハーン足りえるのは、集まった遊牧民たちの生活を楽にし、豊かにすることで彼らからの支持を取り付けているからであり、自分に付き従う遊牧民から財物を徴収するなど問題外で、むしろ自分の才覚でよそから調達した財物を、気前よく民に分け与えなければならない、それができなければ遊牧民の君主として失格の烙印を押されてしまうのです。

民に賜与すべき財物を手っ取り早く獲得するためには周辺国を軍事力で脅迫して上納金を巻き上げるか、略奪するかのどちらかです。

つまり、遊牧民国家は本質的に帝国主義国家だったということです。

 

『アラブが見た十字軍』は、チンギス・ハーン

「都市という都市は徹底的に破壊しなければならぬ。世界全体が広大な草原に戻って、モンゴルの母親たちが自由で幸せな幼な子たちに乳をやることができるために」

 と述べたという伝承を伝えますが、ここにも遊牧民国家の本質が垣間見えるようです。

 

モンゴル帝国の膨張志向は留まるところを知らず、ロシアにも侵攻し、服属させます。いわゆるタタールの軛(くびき)です。ほかにもモンゴル高原から移動してきたフン人の活動がゲルマン人をローマ領内に追い込んだのだそうです。

 

その膨張志向、拡大志向がゆえにモンゴル帝国やその継承国家が大陸内の利権を独占してしまったことに対抗するために、西ヨーロッパ人が海洋帝国を志向し、海に活路を求めたことで大航海時代が始まっていきます。

 

■防波堤としての日本、中世日本が貫いた積極的孤立主義

このユーラシアの大地の惨状を見れば、「日本から見た世界史」とは、大陸で繰り広げられる闘争・混乱・略奪をいかに回避し、防ぐかという”防波堤の歴史観と捉えることも可能なのではないでしょうか。

少なくとも本書や前作『古代編』に登場する、聖徳太子菅原道真北条時宗らの外交姿勢は、当時の国際情勢を見極めたうえで、大陸からもたらされる”厄災”をいかに食い止めるかということに主眼を置いた、積極的孤立主義を貫いた結果であると捉えることができます。

 

現に、菅原道真の時代は遣唐使が停止している間も渤海国満洲から朝鮮半島北部にかけて存在していた国)との交流は頻繁に行われており、そこから大陸情勢を仕入れていた可能性があること、北条時宗南宋の仏僧たちから事前情報を得ていた可能性があることが伝えられています。

平和ボケするのではなく、万全の諜報体制を敷き、適切な情報分析を行なっていたからこそ、正しい決断ができていたのだということでしょう。

(このあたりの古代日本の外交政策の視点については廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』(講談社選書メチエ)が参考になりました。)

 

ちなみに本書や『大間違いの織田信長』において、フランスに先駆けること200年前に、”絶対主義”を確立したことでその先進性が高く評価されている人物といえば、「第六天魔王」、「万人恐怖」こと、室町幕府第六代将軍・足利義教ですが、その先進性は外交政策にも現れていたようです。

 

明石散人『二人の天魔王』(講談社文庫)によれば、義教は明への出兵も企図していたらしく、これは三代将軍義満が明の冊封を受け入れたことに対する反動という意味において、150年後に行われる豊臣秀吉の明出兵と同質のものと考えられるのだそうです。 

秀吉の明出兵は、ポルトガルやオランダの来訪により、大航海時代の実態、つまり大航海時代とは帝国主義時代の到来にほかならず、世界もまた「喰うか喰われるか」の戦国時代なのだということを知ったがゆえの行動であったと言われています。

 

結局、義教が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで、明への出兵も実行されなかったので、本当のところはわかりませんが、もしかしたら義教も大航海時代の到来を予見していたのではないでしょうか。

 

義教は、将軍になる前は「最澄以来の天才。600年に一度の天才」と言われ、実力で天台宗のトップである天台座主に登りつめるほどの人物でした。 

そして将軍となったあとも義教が数々の軍事行動を行う上で、大いに活用したのが日本全国で布教活動を行う時衆の存在だったそうです。彼らを保護し、諜報活動に用いることで日本全国の情報を収集していたことが、義教の積極果断な行動を可能にしていたのです。

 

であるならば、当時の国際情勢についても同様に入明僧たちから情報を逐次入手していたと考えてもおかしくはないのではないでしょうか。

実際、前述のように菅原道真北条時宗の時代から国際情勢の情報収集の一翼を担っていたのが大陸に渡っていた留学僧たちによる裏外交ルートだったのですから。

 

彼らがもたらす情報から義教もまた「世界もまた”喰うか喰われるか”の戦国時代に突入しようとしているのだ」という危機感を持っていたのだとすれば、義教が生き急ぐかのように絶対主義の確立に邁進したのも、分かる気がします。

つまり絶対主義の確立とは国内の綱紀粛正のみならず、積極的孤立主義政策の一環としての性格も有していたのではないでしょうか。憶測ですが。

 

■おわりに

ボクシングの用語にはMix Up(ミックス・アップ)というものがあり、「試合中に対戦相手同士が刺激し合いながら互いの才能を引き出し、レベルアップしていく様子」を指すのだそうです。
本書も、世界の中心としてのモンゴルと、それを拒絶し積極的孤立主義を貫いた日本という、「二つの文明によるMix Up(ミックス・アップ)としての世界史」を本書は提示しているのではないでしょうか。


点と点が繋がり線となることで、これほどまでに歴史が面白くなるとは思いませんでした。

 

次回作(『近世編』でしょうか)が待ち遠しくなる一冊です。

 

おすすめです!

 

参考文献(順不同)

倉山満『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 古代編』

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』(扶桑社新書

岡田英弘世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫

岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った 』(ちくま文庫

岡田英弘編『モンゴルから世界史を問い直す』(藤原書店)

宮脇淳子『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』(KADOKAWA

廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』(講談社選書メチエ

アミン マアルーフ『アラブが見た十字軍』(ちくま学芸文庫

明石散人『二人の天魔王』(講談社文庫)

平田耿二『消された政治家・菅原道真』(文春新書)

阿部猛『菅原道真―九世紀の政治と社会』(教育社歴史新書)