『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』感想② 中央VS出先~満洲事変前夜としての張作霖爆殺事件~

■中央VS出先~満洲事変前夜としての張作霖爆殺事件~

満洲事変期における政局の主役として、政党政治とともに「軍部」の存在も忘れてはなりません。

とはいえ、通説では「軍部の独走により満洲事変が起こった」「満洲事変は陸軍が一枚岩で行ったもの」ということになっているようですが、事実は全く違います。

実際は、「中央」対「出先」、つまり「参謀本部」対「関東軍」という構図でした。

   

では、なぜ「中央」と「出先」が対立することになったのでしょうか?

 

宮田昌明先生の大著英米世界秩序と東アジアにおける日本―中国をめぐる協調と相克』錦正社、2014年)によれば、そこに張作霖爆殺事件が通説とは異なる”かたち”で関係していることがわかります。

  

一般に張作霖爆殺事件は、張の殺害をきっかけに満洲全域の占領を図るために起こされた事件として理解され、それによって同事件は後の満洲事変の”原初的な計画”として位置付けられています。

 

ですが、実際のところ同事件は、当時のエスタブリッシュメントや軍上層部に対する不平、不満を持つ、関東軍のいち大佐による独断的かつ突発的な行動であり、短絡的、直情的な思考のもと実行されたというのが実態であることが指摘されています。

 

当時、南から蒋介石が来るのに対して満洲と北京周辺を抑えていたのが張作霖でしたが、その初期において張作霖との接触ルート構築の一翼を担っていたのが、後に首相となる田中義一ら(当時参謀次長)でした。田中義一参謀次長は中国の有力政治家に対する日本の影響力を強めることで、中国における軍閥操縦を進めようという目論んでおり、その有力政治家の一人として張作霖がいたのです。

 

とはいえ、次第に蒋介石の国民政府が勢力を拡大して中、張作霖は不利な立場に置かれていき、その凋落ぶりは誰の目にも明らかとなっていきます。また、日本としても、時の中国政権に対する干渉的政策が対抗的なものであれ、協調的なものであれ、中国ナショナリズムの反発を招く結果になることから、特定の軍閥と関係を持つことを避けようという外交政策に転換していきます。(宮田先生はここに幣原外交の本質があると指摘されています。)

 

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張作霖



 

■排日の頂点としての奉天

徐々に日本が張作霖と距離を取り始めるなか、両者の間に決定的な亀裂を入れたのは張作霖の経済政策でした。長城以南の武力制覇に固執する張作霖は戦費捻出のため紙幣を乱発します。このことによって張作霖が発行する紙幣である奉天票”は下落し続け、その暴落は危機的な状況を迎えます。

 

こうした中、張作霖政府は、奉天票以外の現地で流通していた兌換紙幣を張作霖の指定する相場で強制的に不換紙幣である奉天票と交換し回収しようとします。

これは実質的に張作霖による資産没収と管理為替制度の導入を通じた経済統制であり、兌換紙幣を主として使用していた日本人商人は現地の中国人商人と商取引ができなくなってしまいました。

日本と奉天政府との関係も満洲における反日機運とも呼応し、劇的に悪化してしまいます。

  

田中義一という性根の腐ったクズ

ほどなくして、蒋介石の国民政府との戦いに敗れた張作霖は北京から満洲に戻ることになりますが、両軍の兵が武装したまま、戦闘状態もしくはそれに近い状況で満洲に帰還するということは満洲も戦乱に巻き込まれる可能性が生じることを意味します。

 

このため関東軍は両軍に対する武装解除を目的とした武力介入を想定し、部隊出動を政府に要請、出動準備に着手しますが、蒋介石との戦いに敗れたとはいえ、張作霖にはまだ利用価値があると踏んでいた田中首相は、一旦は関東軍の要請を受け入れたかのようなそぶりを見せながらも最終的には出動命令を発しませんでした。

実際、一度は現地の判断を受け入れたかのような対応が政府側に見られ、5月20日には21日に上奏が行われるという情報が伝えられたことから、関東軍は出動を22日に延期するなど、出動命令を待つだけの状態だったそうです。

 

ですが、結局出動命令は下りずじまい。

これが関東軍からはどう見えたか。

当時の斎藤関東軍参謀長ですら

「政府の意図は張作霖を保護することにあり、そのために生じる不測の事態については、関東軍司令部に責任を負わせることで解決しようとしているのではないか」

と疑う始末。

 

さらに、その後判明した資料によれば、田中義一首相や白川義則関東軍司令官らは、張作霖が軍事顧問を介して送ってくる「付け届け」を受け取っていたのだそうです。

 

張作霖からの「付け届け」が日本の首相、軍上層部に届けられる一方、在満日本人の苦境が放置される。

 

田中首相は既に陸軍機密費の私的流用が議会で問題にされたこともあり、公金や職権の乱用は公然の認識となっていました。政友会総裁の座も「陸軍機密で買った」といわれるほどです。

 

歴代首相の中には、選挙に負けるのが嫌で解散しなかったというヘタレっぷりを発揮した若槻首相や、八方美人であることだけが取り柄の稀代のポピュリスト・近衛首相、民主党政権下の鳩山、菅首相など、ダメ総理大臣は数多くいますが、エピソードを聞いて一番最初に浮かんだ言葉が「性根の腐ったクズ」だったのは、田中義一首相ぐらいではないでしょうか。

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田中義一

 

挙句の果てには、田中首相が当初は事件の首謀者を厳正に処分するといいながらも、一年も待たせた挙句「やはり厳正な処分はしません」と言い出します。(この過程には田中首相以下、当時の陸軍首脳陣の意向もあったのだとか。)

結局、軍上層部は誰一人責任を取ることもない一方で、主犯の河本大佐は予備役に強制的に編入、つまり退役させられます。

 

河本大佐が張作霖を爆殺するに至ったのも、張作霖の横暴のみならず、場当たり的な損得勘定で方針をころころ変え、口では「保境安民」などと言いながらも現場の治安を一顧だにしない無責任な中央への反発があったからなのですが、この程度では一ミリも揺るがないほど軍上層部は腐りきっていたということなのでしょう。

  

これらのことが契機となり、中堅将校たちの間に軍を改革しなければという意識を芽生えさせ、「中央」VS「出先」あるいは「軍上層部」VS「中堅将校」という対立を生みだしていき、「皇道派」と「統制派」の対立にも影響を与えていきます。

 

張作霖爆殺は河本大佐の意図とは異なったかたち、すなわち軍部内の派閥抗争、意見対立に亀裂をもたらすというかたちで根深い影響を残したといえます。(続く)