『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』感想③ ~押し寄せる独裁政治の波~

■押し寄せる独裁政治の波

①や②で書いた通り、議会政治は「衆議院は醜戯院」と呼ばれるほど腐敗し、陸軍も難題は現場の関東軍に押し付けて責任を取らないグダグダ組織。それが昭和6年当時の日本の状態でした。

国家がなさなければならない仕事はますます複雑となり、強い政府が求められているにもかかわらず、内閣の地位が不安定で、政府が力強い施策を実行できないのであれば、それが国民の不満を招くのは当然です。

 

そんな時、ヨーロッパ方面の政治状況はどうなっていたのか。

ロシアにおいてはソビエト政府、イタリアではファシストによる独裁政治が樹立し、スペイン、ポーランドポルトガルリトアニアギリシャなど、程度の違いはあっても相次いで同じ傾向を持ち、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの諸大国をはじめ、議会制度を維持している諸国においても、立憲政治の危機、代議政治の衰退が声高く叫ばれている状況でした。

 

世界50ヵ国以上の議会議員が構成する「列国議員同盟」においても議会制度に満足しているとの報告があったのはスイスとスウェーデンの2か国のみで、ほかの国々はいずれも議会政治の堕落と不信用を訴えない者は無く、「このままでは議会政治は死滅に瀕し、共産党ファシストか左右の独裁政治に取って代られる」との観測も上がるほど、議会政治への信頼が揺らいでいたのが当時の国内外の情勢だったのです。

  

■議会政治を問う~独裁政治VS憲政の常道

当時の議会政治といえば、「憲政の常道」とも呼ばれる二大政党による政党政治ですが、これまで見てきた当時の政党政治の腐敗・堕落ぶり、世界各国の動向から「独裁政治のほうがマシだ」という声が出てくるのもやむを得ないところなのかもしれません。

    

このような議会政治への不信からくる独裁政治への傾倒に危機感を募らせ、美濃部博士は『議会政治の検討』において、

  • 議会政治はいかなる弱点があるにせよ、なお他に見ることを得ない大いなる長所がある。
  • 独裁政治は、国家非常の際に一時の横道としては時として絶対に必要であることもあり、これによって議会政治におけるよりははるかに多く実際の効果を挙げ得ることがあるけれども、それは要するに、一時の過渡的な手段として認め得るべきに止まり、正常なる制度としては、忍び得ないものである。

と述べ、次のように指摘します。(一部要約)

議会政治の第一の長所は反対党に対する寛容の態度である。これが議会政治の独裁政治と異なる最も主要の点で、我々が独裁政治を排して議会政治を謳歌する所以は主としてこの点にある。

 

独裁政治は、ファシストの政治にせよ、コミュニストの政治にせよ、何れも一国一党の政治である。唯政府に追随し服従する者のみが認容せられて、これに反対する者の存在を許さない。人民は自己の自由なる信念によって行動することを得ないで、一に政府者に盲従することを余儀なくせらるる。政府に反対する者は、即ち国賊であり、自由の行動を許されないのみならず、その生命すらも脅かさるる。スパイの暗中飛躍と正義を無視した暴力の圧迫とは、その必然の結果である。  

 

議会政治はあたかもこれと正反対の地位に在る。現に政権を掌握する者は多数党であっても、それは決して絶対不動の地位に有するものではなく、反対党もまた正当にその存在の権利を主張し得べく、他日若し多数を得る機会があれば、代わって政権を掌握し得べき希望を持っている。 

 

暴力に依らず、合法的手段に依って政権の移動を見ることを得べきは、ただ議会政治においてのみ可能である。

 

第二の長所は、国の政治を公開して国民の批判の下に立たしむることにある。

議会における討論がいかにその権威を失ったにしても、なお議会の開かれている間は、天下の耳目は議会に集注し、その重なる言論は全国の新聞紙によって広く国民に報道せられ、国民の政治思想がそれによって刺激せらるることが著しい。

立法府として及び予算の議定者としての議会の機能は、殆ど有名無実となり、そのすべての実権は政府の手に帰属するに至ったとしても、なお議会は国民環視の前に公に政府の施政を批判し弁難する機能を有するもので、ここに議会制度の一の大なる政治的価値がある。

 

独裁政治は批判を許さない政治である。すべての政治は秘密の間に断行せられて、国民は唯これに従うべく余儀なくせらるるのみであり、これに対する不満を訴うべきところがない。

 

第三の長所は、政治の局にあたるべき首脳者が間接に、国民の奥望に依って決せらるることに在る。

国民は直接には唯議員を選挙するのみであるが、その選挙の結果に依って多数を占め得た者が、内閣を組織すべき大命を受くることとなるのであるから、議員の選挙は間接には内閣の運命を定むるの原因となり、結局は内閣が国民の奥望に基づいて組織せらることとなる。議会政治の他の一の政治的価値は、この点にこれを求めることができる。

我々が議会政治を支持せんとする所以は、主として以上三点に在る。

「議会制度の危機」(昭和6年3月号『中央公論』所蔵)

 

日本において明治維新以後の今日まで政府の組織がいかに変遷してきたかを通覧すると、立憲政治の実施に至るまでの間は、言うまでもなく、純粋の薩長藩閥を主軸とする独裁政治であった。薩長政治は単に政権を掌握したばかりではなく、同時に兵権をも握っていたのであって、陸軍の首脳者と政治の首脳者とは、同一の人であるか、または少なくとも固く相提携していた。

即ち兵力を基礎とする独裁政治が行われていたのである。近頃に至ってファッショ政治ということが、さも新しいことのように唱えられているけれども、ファッショ政治とは結局武力を基礎とした独裁政治であって、日本に取っては決して新しいものではなく、既に多年試験済みの制度である。日本にファッショ政治を行うということは、結局憲法実施前の状況に逆転しようとすることにほかならぬ。

 

こういう政治が過去の日本においていかなる成績を挙げ得たかというと、その偉大な功績はもとより否定し得べからざる所で、内治、外交、軍備、財政、経済のすべてに亘って旧制度を覆し、近代日本の基礎を築いたのは、少なくとも薩長政府の指導に大なる原因を有することは、争うべき余地もない。実際にも維新以後におけるような急激な大改革を断行するには、こういう独裁政治でなければ、不可能であったろうに思われる。

 

但し、一方においては、それはかなり罪悪に満ちた政治であったことも、また争いを容れない所である。少なくともそれは反対者に対する極端な圧迫の政治であり、同時に権力者自身の罪悪に対しては、これを批判し攻撃すべき何らの手段をも許されなかった政治である。

こういう政治に対して、その圧迫を受ける者の側から、強い不平が起こることは、もとより当然であって、佐賀の乱や、西南の役のような大動乱は暫く別にしても、武器を取って政治に反抗せんとする企ては終始絶えなかった。言論集会の自由は極端に抑圧せられ、政党は国賊視せられ、政府に反対する者は居住の自由をも奪わるる有様にあった。

 

 明治14年明治23年を期して国会を開設することの詔勅が発せられたのは、こういう独裁政治を以っては、維新の大業を体制する所以ではないことを洞察せられた結果であって、今日に至って、再び議会開設まえのような独裁政治に復帰しようとすることは、この過去の貴重な経験を無視するものと言わねばならぬ。

(中略)

したがって独裁政治を布くということは、すなわち憲法を中止することを意味する。立憲政治と独裁政治とは絶対に相両立し得ない思想である。あるいは国家の存亡危機に際して憲法の中止もやむを得ないというような極端な説が有るかもしれぬが、独裁政治に依って果たして国家の危急を救うことが出来るかどうかは、極めて不確実な問題で、独裁政治が成功し得るためには、第一にはその主脳者たるべき威望ある大政治家を得ることが必要である、第ニには時の国情が独裁政治に適していることが必要である。

 

こういう特別な事情のある場合でなくして、強いて独裁政治を行おうとすれば、そこには唯混乱があるのみで、それは国家を救う所以ではなく、却って国家を破壊に導く所以である。仮に独裁政治を行うだけの適当な有力者が有り、また時の国情がそれを許すだけの事情が有るとしても、独裁政治といえば常に腕力の政治であり、弾圧の政治であることを必然の性質としているもので、一時の非常手段としてはやむを得ずそれを是認しなければならぬ場合が有り得るとしても、長きにわたっては決して国民を幸福ならしむる所以ではない。

「内閣制度の種々相(昭和7年10月号「経済往来」所蔵)

    

また、政党政治の腐敗にかかわりなく、そもそも政党政治自体に否定的な立場をとるグループも従来から存在していました。いわゆる観念右翼です。

後の国体明徴運動の源流ともいえる上杉慎吉東大教授らによって提唱された学説、天皇主権、天皇親政説は「我が国は天皇を中心とする国体の国であり、デモクラシーがいきすぎれば愛国心がなくなる」と主張し、政党政治に否定的な立場でした。そして、平沼騏一郎に代表されるような官僚系政治家もこの説を支持します。

憲政の常道」が続いているかぎり、政党員でなければ、平沼ら官僚系政治家には出番が回ってこないからです。

 

軍部も政党内閣に予算を握られているという力の関係上、政党内閣に抑圧される側であり、本質的には政党と対立する勢力です。

だからこそ田中義一のような軍人は政党におもねり、政党入りすることで栄達を果たそうとしたのです。

 

そんな政治情勢が揺らいでいるさなか、満洲事変を契機に起こったのが「協力内閣」運動でした・・・(続く。)

 

(参考文献)

『学校では教えられない歴史講義満洲事変』(倉山満。ベストセラーズ。2018年)

『議会政治の検討』(美濃部達吉。1934年)

『検証 検察庁近現代史』(倉山満。光文社新書。2018年)