『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』感想④ 協力内閣運動の虚妄 

■協力内閣運動の虚妄 協力という名の排斥

一般に「非常時に対応するには二大政党が協力するしかない」という主張のもと、政友会と民政党による大連立を目指したといわれる協力内閣運動ですが、これを推し進めた安達謙蔵らの意図は一体、どこにあったのでしょうか。

諸説あるため、真意を図りづらいところもありますが、例えば『政友会と民政党』(井上寿一中公新書。2012年)での論調でいえば、満洲事変と10月事件という内外からのクーデター、すなわち軍部からの挑戦から議会政治を守るために、政党の力を結集しなければならないという危機感のもと起こった運動であったという描かれ方をしています。

ですが、その内実をよくよく見てみると協力内閣運動という政界再編に乗じて、元々安達たちと反目していた議員(特に官僚系議員)を排撃しようとしていたフシが見て取れます。

また近年、より積極的に協力内閣運動を支持する論を展開している学者は、

  • 当時の政党は官僚系によるポスト独占が続いている状態であり、安達ら党人派政治家には、総理総裁にすらなることが出来なった
  • 安達はそもそも二大政党制、憲政の常道に否定的であった。
  • このため安達らは、官僚系政治家を排撃し、両党の党人派の力を結集、反官僚政党として純化させることで、第3極として政治力を発揮しようとしたのだ

などと臆面もなく論じています。

 

そうなると、安達らは政友会、民政党双方に分断工作を仕掛けることで、政友会、民政党に続く第3の党として政局を動かそうとしていたということになります。

仮にそうだとすれば、安達たちは、そこにどのような政治力学を求めたのでしょうか。

 ■ラムゼイ・ミュアの連立内閣論

 『イギリスの議会政治』(ハロルド・ラスキ。日本評論社。1990年)よれば、1930年代当時、イギリスでも二大政党制を批判する論が政治学者のラムゼイ・ミュア氏らによって展開されていたのだそうです。ミュア氏が掲げる理想の内閣制とは、右派、中間派、左派による三党制であり、ミュア氏は

  • 多党に基づく内閣制には、一方から他方への「激しい振り子の揺れ」をなくすという大きな利点があり、
  • それは「政治的意見の合理的妥協と調整」を可能にし、必然的ならしめる

と論じ、続けざまに

  • 二党制は政府与党を維持することを主目的とする多数党と、与党にとってかわるために政府の信用を傷つけることを目的とする少数党の二つの規律ある密集部隊に議会を二分することによってわが政治制度の働きを妨げた。
  • 二党制は議会の議事から活気を奪い、国民の面前で議会の威信を著しく傷つけた。なぜならば、野党はあらゆる機会をとらえて政府の信用を傷つけるし、与党は良心の呵責なしに重大な結果を招く場合を除いては、素直かつ公然と批判する義務を怠って政府の行動をすべて支持するからである。

 と二党制批判を展開したのだそうです。

■ラスキ教授の連立内閣批判

このミュア氏の連立内閣論に対して労働党のブレーンでもあったハロルド・ラスキ教授は次のように反論します。

この主張は確かに論理的であるし、説得力を持っているが、それにもかかわらず私は全く誤りだと考える。わがイギリスに比べて、小党分立するフランスのような国々の方が議会の権威が高いという証拠はどこにもない。それどころか逆に、議員の自由な行動は重要政策の遂行に欠かせない固い忠誠心をあやふやにし、政府の信用を傷つけるのである。

(中略)

議論の便宜上、ミュア氏の三党制を基盤にして選挙方法を改正したと仮定した場合に、結果はどうなるのか。

現在のように単独で政府を組織できるだけの強力な与党が出現する(この場合、現在の状況とあまり実質的には変わらない)か、またはどの政党も単独では政府を組織できないほど弱い諸政党によって構成された衆議院が出現するかのいずれかである。

 

この後者の場合、少数内閣かまたは連立内閣が生まれる。少数内閣の弱さについては、戦後の経験から言って、ほとんど詳述する必要はあるまい。その結果、政治的かけ引きが政策論にとってかわる。

政府に協力する小政党が政治の真の主人公になり、政府は、他党の協力を得ることを望むあまり、みずからこれはと思う政策を二の次にする。したがって、政府の施策は勇断と一貫性(これらはどの政治制度にとっても一番大事な徳目である)とに常に欠ける。

 世論に敏感に反応することの必要性が少数内閣の場合に著しく増大することは言うまでもない。第三政党は、自党の維新高揚のために常に政府の譲歩を強要するという誘惑にかられるし、また政府がわが党のおかげで命脈を保っているのだということを国民に印象づけたがる。それが少数党政府が常に弱体かつ短命な理由である。

(中略)

第三政党は確かに、1924年議会の自由党のように、アスキス氏が「特恵的援助」と呼んだところのものを、自分たちは内閣に与えていると考える。しかし、第三政党にとって内閣を正しい方向に向けさせる企てに見えることも、内閣にとっては常に政府の威信を傷つけるために振り回されるダモクレスの剣のように見える。そこで内閣は当然に、都合がつく限りできるだけ早く、そのような状況から逃れようと努める。

ダモクレスの剣・・・ギリシャ神話によると、デュオニュソスは、宴会のとき一本の毛髪で吊るした剣の下にダモクレスを坐らせ、王者がいかに不安定なものであるかを教えた。

 内閣に統一的目的を与えるのは、内閣の政党的性格である。その統一目的を保持するための制裁手段を提供するのも、内閣の政党的性格である。解決すべき諸問題を類似の角度から観察し、類似の目的を持った志を同じくする人々が内閣に列することを政党は保障する。あらかじめ定められた大方針の枠内で永続的に衆議院過半数に支持される政策を内閣が現に遂行できるようにさせるのも政党である。

ディズレーリ「イギリスは連立政権を好まない」といみじくも述べた理由もこれである。

 議会制民主主義にとって涙すべき二日間

実際、現代の日本の政治を振り返ってみても二大政党制ではなくなったからと言って、腐敗が無くなったでしょうか?

清廉潔白な政治が行われ、なおかつ政治の質は高まったと言えるのでしょうか?

 

むしろ、その逆で、自民党絶頂期の田中角栄時代においては金権政治が横行しましたし、いまだに政治の劣化が甚だしいと言わざるを得ない状況なのではないでしょうか。

 

つまり、二大政党制だから政治が腐敗するというような公式が成り立つものではないということではないでしょうか。

 

井上寿一氏などは安直に「二大政党制には限界があったのだから、同様に今の日本の政治も二大政党制の確立を急ぐよりも、連立政権の再編を試みるべきである」などと提唱しますが、ラスキ教授の連立内閣批判にはどのように応じるのでしょうか。

(※本書『学校では教えられない歴史講義 満洲事変』でも倉山満先生が、安達の協力内閣とは別の宇垣一成を首班とする「挙国一致内閣」は軍部を掣肘できたはずだとの”珍説”を唱えた坂野潤治氏、小山俊樹氏、伊藤之雄氏に筆誅を加えていらっしゃいますが、井上寿一氏も氏の別著『危機のなかの協調外交』の記述が作為的であり、謬論に導くための恣意的な資料操作であることを宮田昌明先生に批判されている御方ですから、そんな人達に誠実な姿勢を求めること自体、無駄なのかもしれません)

 

結局、安達らの協力内閣運動は、ラスキ教授の指摘通り、憲法習律すなわち政治秩序としての「憲政の常道」を破壊し、内閣を、政党政治を、ひいては議会政治を弱体・分裂化させただけの運動となりました。

 

つまり協力内閣運動、その帰結としての昭和6年12月10日~同年12月11日の政変とは、「世界と日本の歴史を変えた二日間」であると同時に、政治家自身が議会政治を殺した「議会制民主主義にとって涙すべき二日間」であったとも言えそうです。(続く)

 

(参考文献)

『学校では教えられない歴史講義満洲事変』(倉山満。ベストセラーズ。2018年)

『イギリスの議会政治』(ハロルド・ラスキ。日本評論社。1990年)

英米世界秩序と東アジアにおける日本―中国をめぐる協調と相克』(宮田昌明。

錦正社。2014年)

『政友会と民政党』(井上寿一中公新書。2012年)

『協力内閣運動と安達謙蔵の政治指導-“多数派主義”と「デモクラシー」の相克-』(原田伸一。政経論叢。2013年3月)

『第二次若槻内閣期における議会政治の擁護』(原田伸一。政経論叢。2014年3月)

 『二大政党制下における,ガバナンス構築の失敗-民政党内閣を例に-』(原田伸一。政経論叢。2015年3月)