経済評論家改めDV芸人の三橋貴明氏、チャンネル桜に復帰?! #チャンネル錯乱 #DV #常習的DV #三橋 #三橋貴明 #偽装保守 #GKBR
視聴感想 特別番組「プライド」ゲスト スポーツライター金子達仁 「闘想家」“Show”大谷泰顕 倉山満【チャンネルくらら・2月28日配信】
特別番組「プライド」ゲスト スポーツライター金子達仁 「闘想家」“Show”大谷泰顕 倉山満【チャンネルくらら・2月28日配信】
@YouTubeさんから
まさかの金子達仁さん登場!
それにしても、UWF、Uインター、PRIDEの舞台裏の話は面白い!
こういうトークの場でもネタに事欠かないのが「プロレス」の醍醐味ですね。
PHP研究所 売れ筋ランキング 第6位!! 『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 中世編』 #倉山満 #岡田英弘 #PHP研究所 #チャンネルくらら #倉山工房 #世界史 #日本史 #歴史
書評『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 中世編』 #倉山満 #PHP研究所 日本から世界史を問い直す~”修羅の大地”ユーラシアと中世日本が貫いた積極的孤立主義~
書評『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 中世編』
倉山満著 PHP研究所
日本から世界史を問い直す~”修羅の大地”ユーラシアと中世日本が貫いた積極的孤立主義~
- ■世界史がつまらない本当の理由
- ■日本人が学んでいる「世界史」はニセモノ
- ■日本人が語り継ぐべき”本物の世界史”とは何か
- ■修羅の大地、ユーラシア
- ■大陸を席捲する遊牧民国家と大航海時代の始まり
- ■防波堤としての日本、中世日本が貫いた積極的孤立主義
- ■おわりに
■世界史がつまらない本当の理由
「馴染みのない単語ばかりで覚えられない」、「つながりがよくわからない」、「イメージしづらい」・・・
「世界史がつまらない」というときに、よく耳にする理由といえば、このあたりではないでしょうか。
かくいう私もそうでした。
古代ローマ、ギリシャ、キリスト生誕の話をしていたかと思うと、項羽・劉邦が登場。隋・唐時代の中国の話になり、いつの間にやら十字軍が登場してきて、ルネサンスが起き、あっという間に産業革命が起きる。
そうこうしているうちに、3学期も終わりに近づき、さらに授業の進行スピードは加速。
アヘン戦争があって、ナチス・ドイツが現れ、米ソ冷戦が訪れる。
前後のつながりなんぞお構いなしに、かけ足で駆け抜けて終了。
こんな授業の進め方では世界史がつまらないものになってしまうのも当然なのですが、世界史がつまらない本当の理由は、授業の進め方や単語、登場人物への馴染みの無さに由来するだけではないようです。
なぜ世界史がつまらないのか。
その本当の理由は「学校で習う”世界史”は世界史ではない」からです。
■日本人が学んでいる「世界史」はニセモノ
日本の東洋史に偉大な足跡を残された不世出の歴史学者にして、チャンネルくららでおなじみ東洋史研究家、宮脇淳子先生の旦那様であった故・岡田英弘先生の著書『世界史の誕生』『日本史の誕生』(共にちくま文庫)よれば、日本における”世界史”とは「西洋史と東洋史を合体させたもの」に過ぎません。
西洋史にいたっては、一国一国の興亡盛衰を著述した”万国史”を、東洋史の正統史観(司馬遷の『史記』に由来する歴史観)に基づいて日本独自に焼き直しして出来上がったものであり、本来の西洋史が有している地中海文明キリスト教歴史観すら逸脱しています。
さらには、この「世界史」には「国史」に由来する日本史が含まれていません。
その結果、「日本抜きの世界を、日本の学校で、日本人が学習する」ということになってしまっているのです。
「これでは、まるで日本は世界の一部ではないかのごとくであり、日本の歴史は世界史に何の関係もなく、何の影響も与えないものであるかのごとくではないか。これでは、「世界史」で扱うべき事項の選択に、我々日本人との関連の観点が入ってこず、事項を増やせば増やすほど筋道の混乱がひどくなり、やたらと雑駁になるばかりなのは当然である。」
という岡田先生の指摘ももっともです。
同様に、本書の著者である倉山満先生も前作『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 古代編』で、「日本人が学んでいる「世界史」はニセモノです。」と切って捨てます。
日本人が学んでいる「世界史」はニセモノです。
高校生になると、「世界史」の授業があります。しかし、あれは「世界史」の看板を掲げてあるだけで、本物の世界の歴史ではありません。お願いだから「中華と西欧」みたいに、看板を正しく書き換えてほしいと思います。それで悪ければ「東洋史の一部と西洋史の一部の野合」みたいに、正確な表記にしてほしいものです。
東洋史とは何か。「中華様とその他の歴史」です。西洋史とは何か。「イギリス、フランス、ドイツを中心としたヨーロッパとその他の歴史」です。
地図を見てください。「中国、イギリス、フランス、ドイツ」など、人類のごく少数の人たちにすぎません。なぜ彼らが、人類の中心なのか。彼らが「自分こそ世界の中心である」と言い張り、それを真に受けた東洋史や西洋史の研究者が鵜呑みにして、教えているからです。
だから、日本で教えられている「世界史」は、世界の歴史でもなんでもない、偏った歴史になるのです。
日本人が描く西洋史にかかれば、ロシアやアメリカの歴史などはマイナー分野です。ロシアもアメリカも、ギリシャ・ローマに始まるヨーロッパ文明を源とするという発想です。ロシア人やアメリカ人が勝手にギリシャ・ローマを崇拝するのはかまいませんが、なぜ日本人までそんな歴史観に付き合わねばならないのか。そもそも、ギリシャやローマなど、どれほどの文明だったのか。
東洋史家に至っては、周辺民族のことを「塞外」などと呼びます。まるで研究する価値がないかのような扱いです。
では、現在は中華人民共和国の少数民族扱いされている満洲・モンゴル・回族(イスラム教徒)・チベットが、そんなに価値のない人たちなのか。子供だって、ユーラシア大陸に大帝国を築いたチンギス・ハンがモンゴル人だったことは知っています。モンゴル人は中国の一少数民族ではなく、むしろ過去に偉大な歴史を持つ民族です。
イスラム教の理解を抜きにして、現在の世界を語るのは不可能です。西欧にも中華世界にも多大な影響を与えています。しかし、既存の東洋史や西洋史の枠組みのなかで、イスラム教に正当な評価が与えられてきたでしょうか。
以上にことを並べてみただけでも、日本人が教えられてきた「世界史」が、いかにニセモノで、世界の歴史を知るのに不十分であるかがわかると思います。
■日本人が語り継ぐべき”本物の世界史”とは何か
では、ニセモノ、西洋史と東洋史の野合に過ぎない世界史ではなく、”本物の世界史”を学ぶにはどうすべきか。
岡田英弘先生は、「本当の意味の世界史はいまだに書かれていない」と指摘し、
「本当の意味の世界史を書くとなると、個々の文明の歴史の枠組みを超越した、新しい共通の枠組みを開発することが先決である」
との考えから、東洋史と西洋史の矛盾を解決し、単一の世界史に到達する道として”中央ユーラシアの草原から見た世界史”、すなわち地中海世界とシナ世界を直接結びつけた、“十三世紀のモンゴル帝国から見た世界史”を提唱されました。
実際、私も岡田先生の著書(と言っても『世界史の誕生』『日本史の誕生』の二冊だけですが)を読んでみましたが、個別の事柄については賛否両論分かれるだろうなと思われるものの、「岡田史学」とも呼ばれる岡田先生の歴史観は非常に明快であり、論理的です。
倉山満先生も「血肉になるまで岡田史学を読みこんだ」のだそうです。(by岡田英弘編『モンゴルから世界史を問い直す』(藤原書店))
では、倉山先生が本書で語っている世界史も岡田史学に基づく歴史観が展開されているのかといえば決してそうではありません。
倉山先生は前掲『モンゴルから世界史を問い直す』の中で「モンゴルで世界史が始まったとはまた違う世界史の定義を自分の中で作ることが大事だと思っています。」とも語っています。
むしろ、「岡田史学」を継承しながらも、まったく別の視点で描いた歴史観、すなわち「日本から世界史を問い直す」という視点に基づいて描かれているのが、この「誰も教えてくれない 真実の世界史講義」シリーズなのではないでしょうか。
そしてそれは「岡田史学」と異なる視点で歴史を描いたということだけにとどまらない、「モンゴルから見た世界史」と対をなす、併存可能な歴史認識としての「日本から見た世界史」が誕生した瞬間であるとも言えます。
■修羅の大地、ユーラシア
モンゴルから見た世界史、すなわち「岡田史学」で歴史を捉えてみた場合、どのような歴史が紡ぎだされるのでしょうか。
ユーラシア(Eurasia)はユーロ(Euro)とアジア(Asia)を掛け合わした言葉であり、ユーロ(Euro)の語源は、主神ゼウスに娶られた美しき王妃、フェニキア王の娘エウロペの名に由来し、アジア(Asia)は、フェニキア人がエーゲ海から西をエレブereb、東側をアスassuと呼んでいたことから「東」、「日の出」という意味を持つと言われています。※諸説あり
ですが、”美しき王妃”、”日の出”という名とは裏腹に、ユーラシアの大地は対立と抗争、支配と服従、略奪と蹂躙を繰り返してきた場所であり、そこで決定的な役割を果たしてきたのは、つねに草原の民、すなわち中央ユーラシアの遊牧民たちでした。
東アジアをみれば、中国の歴史は紀元前3世紀の秦の始皇帝の中原統一とともに始まり、最初の500年間の主役は秦・漢の中国人でしたが、4世紀初めの五胡十六国の乱を境に、北アジアの遊牧民が主役の座に躍り出ます。この状態が300年続いたあと、鮮卑と呼ばれる遊牧民の手によって中国は再統一を果たします。これが隋・唐です。
その後、この鮮卑系の中国と競争して、次第に中国を圧倒し、最後に中国を呑み込んでしまったのは、中央ユーラシア草原の一連の帝国、トルコ・ウイグル・キタイ・金・モンゴルでした。そしてモンゴル帝国の支配下のもと、元朝・明朝・清朝といったモンゴル化された中国が形成されます。いずれの場合も王朝が変わるときは、
1:新王朝の設立⇒2:功臣の粛清⇒3:対外侵略戦争⇒4:漢字の一斉改変と改鼠歴史書の作成⇒5:宦官、閨閥など皇室側近への跳梁⇒6:秘密結社の乱立と農民反乱の全国化⇒7:地方軍閥の中央侵入⇒8:1へ戻る
の繰り返しで、その過程においては国情が大混乱に陥ることも常で、人口が半減したり、5分の1以下になることもあったのだそうです。総人口が5分の1以下になるなんてもはや、それは「民族として滅亡した」と言ってもよいくらいです。
オリエント(中東)も同様です。紀元前の時代はアケメネス朝ペルシャがなり、その後、西のローマ、東の漢に伍する大国パルティアが栄えるなど、名実ともに文明の最先端地域の名を欲しいままにしていました。
ですが、時代を経るにして退廃していき、十字軍の侵略を受けるころには、その内情は相当腐敗していたようです。
アミン・マアルーフ著『アラブが見た十字軍』(リブロポート)はこう述べます。
「相当数の草原の戦士たちが、アラブあるいは地中海の文明とまったく結びつきがないのに、定期的にやって来て、指導階層である軍部に同化する。以来、アラブは支配され、抑圧され、ばかにされ、自分の土地にすみながらもよそ者になり、7世紀以降始まった自分たちの文化的開花を追求することができなかった。
フランク(※十字軍)がやって来たとき、彼らはすでに足もとがおかしく、過去の遺産で生きることに満足していた。
だから、この新たな侵略者に対し、ほとんどの面でまだ明らかに先進的であったにせよ、彼らの衰退は始まっていたのである。」
と。
(余談ですが、『アラブが見た十字軍』では、「饒舌に尽くしがたい殺生を重ねて勝利を祝い、その上で、口先では崇めているといいながら、その聖都を荒らしまくったのである」と、正気の沙汰とは思えない十字軍の蛮行も描かれています。)
■大陸を席捲する遊牧民国家と大航海時代の始まり
モンゴル帝国の飽くなき膨張思考は、ヨーロッパ方面にも多大な影響を及ぼします。
そもそも、遊牧という生活形態では、平時に団結する必要はありません。むしろモンゴルの大草原は年間降雨量は東京の4分の1と非常に少なく、草の生え方がまばらであるため、一箇所に人口が集中すると家畜がすぐに草を食い尽してしまい、生活が成り立たないのです。せいぜい数家族が揃う程度が限界です。
そんな遊牧民が国家を成す契機となったのは交易と農耕民による中国統一でした。交易は遊牧民にとっても生活に欠かせない食塩や穀物を農耕民から入手するための重要な生活手段です。その取引相手である農耕民が中国統一を果たし、秦という国が出現したことで、交易における彼我の交渉力には雲泥の差が生じることになり、死活問題となります。
モンゴル草原に匈奴の最初の遊牧帝国が出現したのは、まったく中国に対抗する必要から遊牧民が団結した結果だったのです。
とはいえ、国家として団結するために人口が、それに付随しておびただしい数の家畜が一箇所に集中してしまうと、上記のように家畜の餌としての草がたりなくなります。
民が困窮しないように何かしらの手を打たなければなりません。
まずは何よりも遊牧民国家とは、部族連合によって成り立っているものでした。
ハーンがハーン足りえるのは、集まった遊牧民たちの生活を楽にし、豊かにすることで彼らからの支持を取り付けているからであり、自分に付き従う遊牧民から財物を徴収するなど問題外で、むしろ自分の才覚でよそから調達した財物を、気前よく民に分け与えなければならない、それができなければ遊牧民の君主として失格の烙印を押されてしまうのです。
民に賜与すべき財物を手っ取り早く獲得するためには周辺国を軍事力で脅迫して上納金を巻き上げるか、略奪するかのどちらかです。
つまり、遊牧民国家は本質的に帝国主義国家だったということです。
『アラブが見た十字軍』は、チンギス・ハーンが
「都市という都市は徹底的に破壊しなければならぬ。世界全体が広大な草原に戻って、モンゴルの母親たちが自由で幸せな幼な子たちに乳をやることができるために」
と述べたという伝承を伝えますが、ここにも遊牧民国家の本質が垣間見えるようです。
モンゴル帝国の膨張志向は留まるところを知らず、ロシアにも侵攻し、服属させます。いわゆるタタールの軛(くびき)です。ほかにもモンゴル高原から移動してきたフン人の活動がゲルマン人をローマ領内に追い込んだのだそうです。
その膨張志向、拡大志向がゆえにモンゴル帝国やその継承国家が大陸内の利権を独占してしまったことに対抗するために、西ヨーロッパ人が海洋帝国を志向し、海に活路を求めたことで大航海時代が始まっていきます。
■防波堤としての日本、中世日本が貫いた積極的孤立主義
このユーラシアの大地の惨状を見れば、「日本から見た世界史」とは、大陸で繰り広げられる闘争・混乱・略奪をいかに回避し、防ぐかという”防波堤の歴史観”と捉えることも可能なのではないでしょうか。
少なくとも本書や前作『古代編』に登場する、聖徳太子、菅原道真、北条時宗らの外交姿勢は、当時の国際情勢を見極めたうえで、大陸からもたらされる”厄災”をいかに食い止めるかということに主眼を置いた、積極的孤立主義を貫いた結果であると捉えることができます。
現に、菅原道真の時代は遣唐使が停止している間も渤海国(満洲から朝鮮半島北部にかけて存在していた国)との交流は頻繁に行われており、そこから大陸情勢を仕入れていた可能性があること、北条時宗も南宋の仏僧たちから事前情報を得ていた可能性があることが伝えられています。
平和ボケするのではなく、万全の諜報体制を敷き、適切な情報分析を行なっていたからこそ、正しい決断ができていたのだということでしょう。
(このあたりの古代日本の外交政策の視点については廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』(講談社選書メチエ)が参考になりました。)
ちなみに本書や『大間違いの織田信長』において、フランスに先駆けること200年前に、”絶対主義”を確立したことでその先進性が高く評価されている人物といえば、「第六天魔王」、「万人恐怖」こと、室町幕府第六代将軍・足利義教ですが、その先進性は外交政策にも現れていたようです。
明石散人『二人の天魔王』(講談社文庫)によれば、義教は明への出兵も企図していたらしく、これは三代将軍義満が明の冊封を受け入れたことに対する反動という意味において、150年後に行われる豊臣秀吉の明出兵と同質のものと考えられるのだそうです。
秀吉の明出兵は、ポルトガルやオランダの来訪により、大航海時代の実態、つまり大航海時代とは帝国主義時代の到来にほかならず、世界もまた「喰うか喰われるか」の戦国時代なのだということを知ったがゆえの行動であったと言われています。
結局、義教が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで、明への出兵も実行されなかったので、本当のところはわかりませんが、もしかしたら義教も大航海時代の到来を予見していたのではないでしょうか。
義教は、将軍になる前は「最澄以来の天才。600年に一度の天才」と言われ、実力で天台宗のトップである天台座主に登りつめるほどの人物でした。
そして将軍となったあとも義教が数々の軍事行動を行う上で、大いに活用したのが日本全国で布教活動を行う時衆の存在だったそうです。彼らを保護し、諜報活動に用いることで日本全国の情報を収集していたことが、義教の積極果断な行動を可能にしていたのです。
であるならば、当時の国際情勢についても同様に入明僧たちから情報を逐次入手していたと考えてもおかしくはないのではないでしょうか。
実際、前述のように菅原道真~北条時宗の時代から国際情勢の情報収集の一翼を担っていたのが大陸に渡っていた留学僧たちによる裏外交ルートだったのですから。
彼らがもたらす情報から義教もまた「世界もまた”喰うか喰われるか”の戦国時代に突入しようとしているのだ」という危機感を持っていたのだとすれば、義教が生き急ぐかのように絶対主義の確立に邁進したのも、分かる気がします。
つまり絶対主義の確立とは国内の綱紀粛正のみならず、積極的孤立主義政策の一環としての性格も有していたのではないでしょうか。憶測ですが。
■おわりに
ボクシングの用語にはMix Up(ミックス・アップ)というものがあり、「試合中に対戦相手同士が刺激し合いながら互いの才能を引き出し、レベルアップしていく様子」を指すのだそうです。
本書も、世界の中心としてのモンゴルと、それを拒絶し積極的孤立主義を貫いた日本という、「二つの文明によるMix Up(ミックス・アップ)としての世界史」を本書は提示しているのではないでしょうか。
点と点が繋がり線となることで、これほどまでに歴史が面白くなるとは思いませんでした。
次回作(『近世編』でしょうか)が待ち遠しくなる一冊です。
おすすめです!
参考文献(順不同)
倉山満『誰も教えてくれない 真実の世界史講義 古代編』
岡田英弘『世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統』(ちくま文庫)
岡田英弘『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った 』(ちくま文庫)
岡田英弘編『モンゴルから世界史を問い直す』(藤原書店)
宮脇淳子『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』(KADOKAWA)
廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』(講談社選書メチエ)
アミン マアルーフ『アラブが見た十字軍』(ちくま学芸文庫)
明石散人『二人の天魔王』(講談社文庫)
平田耿二『消された政治家・菅原道真』(文春新書)
阿部猛『菅原道真―九世紀の政治と社会』(教育社歴史新書)
祝3刷!!『世界の歴史はウソばかり 』 #倉山満 #チャンネルくらら #倉山工房 #国民国家論 #世界史
★本日はこちらも3刷が決定!!
— チャンネルくらら (@chanelcrara) 2018年2月22日
『世界の歴史はウソばかり 』倉山 満
: https://t.co/08aHEWKYWr pic.twitter.com/RQ8wJ4OxAI
チャンネルくらら
@chanelcrara
★本日はこちらも3刷が決定!!
『世界の歴史はウソばかり 』倉山 満
: http://amzn.asia/4fdLmrj
ビジュアル増補版 書評『国際法で読み解く戦後史の真実 文明の近代、野蛮な現代』 決闘って何?ヨーロッパ法精神の原風景と三河武士団 #倉山満 #PHP研究所 #国際法 #世界史 #歴史 #決闘裁判
書評『国際法で読み解く戦後史の真実 文明の近代、野蛮な現代』
倉山満著 PHP研究所
決闘って何?ヨーロッパ法精神の原風景と三河武士団
- ■概要
- ■決闘って何?~国際法の原点、ヨーロッパ法精神の原風景を探る~
- ■決闘の変遷
- ■自由と名誉、権利のための闘争
- ■国際法と決闘裁判
- ■日本が進むべき道 徳川家康と今川氏真
- ■日本が徳川家康になるための秘訣は三河武士団にあり!
■概要
『嘘らだけシリーズ』でおなじみ倉山満先生の『国際法で読み解く世界史の真実』の続編!
前作『~世界史の真実』は国際法の成立から崩壊までをローマ帝国から第二次世界大戦の始まりまでを描いたものでした。
その姉妹本にあたる本書は、第二次世界大戦以降から現代に至るまでの現代史をつぶさに書き上げることで、
を論じた一冊であり、特に戦後の国際社会を読み解く上でも、日本の姿を語る上での欠くことのできない要素として国際法の概念が随所に用いられています。
ここでは、本書はもちろんのこと、倉山先生の他の著書でも国際法に触れる時には、必ずと言っていいほど登場するフレーズである「国際法の原点は中世ヨーロッパにおける”決闘のルール”である」というフレーズに着目して考察を加えてみたいと思います。
■決闘って何?~国際法の原点、ヨーロッパ法精神の原風景を探る~
あらためて、本書はもちろんのこと、倉山先生の他の著書でも国際法に触れる時には、必ずと言っていいほど登場するフレーズといえば、「国際法の原点は中世ヨーロッパにおける”決闘のルール”である」というフレーズでしょう。
では国際法の原点は決闘のルールであるならば、中世ヨーロッパにおける”決闘”とは一体どういうものだったのでしょうか。
またその”決闘”が表現していた当時のヨーロッパ人の精神世界とはどのようなものだったのでしょうか。
知っているようで実は知らない”決闘”のことがわかれば、国際法への理解もより深まるのではないかと思い、『帝国憲法の真実』でも参考文献として掲載されている山内進著『決闘裁判-ヨーロッパ法精神の原風景』を手に取ってみました。
■決闘の変遷
決闘の変遷①~神の裁き~
決闘の起源は古く、キリスト教が広まる以前の古代ゲルマンの時代に遡ることができるそうです。
タキトゥスが記した『ゲルマーニア』には、決闘の原型とも言うべき慣習についての記述があり、ゲルマン諸族の間には敵族の捕虜と自族の戦士を戦わせ、その結果を“神意”と見立て、戦争の行く末を占うという慣習があったのだそうです。
この「勝負の結果とは神の判決である」とみなす考え方は、時代を経るに従い、当初の部族間(集団)の紛争から徐々に個人間の紛争においても適用されるようになっていきます。当時のゲルマン諸族の心理を『ローマ帝国衰亡史』で有名なキボンはこう記したのだそうです。
「この連中は勇者が刑に値し、臆病者が生きるに値するなどとは信じ得なかったのだ。係争が民事刑事のいずれたるとを問わず、原告あるいは告発者も被告も、いや時に証人すらも、合法的根拠を持たぬ相手からの生死を懸けた挑戦にさらされており、そうなった場合、自己の言い分を放棄するか、あるいは公開の決闘の場で名誉を維持するかを選ぶのが義務とされた。」
決闘の変遷②~神判としての決闘~
こういった世界観が定着していたところにキリスト教の教えが広まり、混じり合うことで決闘は、「決闘裁判」という”神判”に変貌していきます。
(ちなみに決闘裁判以外の”神判”は熱湯裁判、熱鉄裁判、冷水裁判。熱湯に手を入れて火傷をしたならば有罪、無傷なら無罪、冷水の中に身を投げて浮かんだら有罪、沈んだままなら無罪という類のものです。『決闘裁判~』では決闘裁判以外の神判についても詳しく記述されており、それはそれで興味深いのですが、話が逸れてしまうのでここでは省略致します。)
当時の中世ヨーロッパと言えば最先端の文明地域かと言えば決してそんなことは無く、血と暴力に彩られた”辺境の地”に他なりません。宗教勢力や王様、貴族が群雄割拠している状態であり、皆を従わせることができる集権的権力が不在の、まとまりのない野蛮な世界です。
とりわけキリスト教に代表される宗教勢力は「人を殺してはならない」と民衆に説くどころか、「魔女狩り」「異端尋問」などと称して率先して人殺しを行っていた、あるいは(自らの手を汚さずに)国王や貴族に人殺しをやらせていた集団であったことは、最強の教皇インノケンティウス3世の「すべてを殺せ。主はすべてを知りたまう。」を思い起こせば、くららファンの方ならご理解頂けるのではないでしょうか。
そんな野蛮な世界の中で自らの権利や財産を守りたくば、どうすればよいのか。
奪われた時にどうすればよいのか。
手段はたった一つ、実力行使(自力救済。Fehdeフェーデとも呼ばれる)に訴える以外自らの権利を取り戻す術はないということです。
そんな実力行使に大義名分を与えてくれたのが「判決は神の裁きである」とする”神判”でした。
戦いの結果は神の裁きであり、神意である―。
神様が相手では、誰も文句が言えないのも当然です。
確かに生来のゲルマン諸族の世界観、価値観が根本にあるのでしょうが、決闘が神判として受け入れられたのは、むしろ結果に対して誰にも文句を言わせないための”生存のための知恵”であったようにも思えてなりません。
(当時の決闘裁判の様子を描いた絵画)
決闘の変遷③~合法的自力救済~
”神判”となった”決闘裁判”はルール化され、裁判に訴えるための手続き、代理人(決闘士)を立てる場合の許可、男女で争うことになった場合の決闘方法(男は地面に掘られた穴に半身を埋め、片手でしか戦えないようにする)、決闘する場合の服装、使える武器、ルールを犯した場合の罰則・制裁方法などが定められ、中世ヨーロッパにおいては合法的な法制度、合法的な自力救済として確立されていきます。
※ちょっと笑えるイラストですが、これが正規のマニュアルだったそうw
さらに注目すべきは「決闘の最中においても和解が可能だった」とされていることです。
イングランドを例に挙げれば、和解は戦いの始まった直後でも、形勢が明らかになった時点でも構わなく、和解のためには裁判官に罰金を支払う必要がありましたが、和解の内容は当事者に委ねられていました。不利な方は、当然、不利なかたちで和解せざるを得なかったでしょうが、このような和解のかたちがあったおかげで、イングランドでは決闘士が死ぬまで戦うことは殆どなかったのだそうです。
神判の名の下に決闘するだけでなく、裁判の内外で和解によって互いの面子を保ち、応分の利益を分かち合う。さらに和解の後に互いに何かを贈与することで、相互の絆を新たに作り上げるか、絆を回復し強めることも珍しいことではなかったのだそうです。
■自由と名誉、権利のための闘争
前述のように、まとまりのない野蛮な世界だった中世ヨーロッパ。皆を従わせることができる集権的権力の登場はフランスのリシュリューによる絶対王権の確立、その後の”主権国家”の登場まで待たねばなりません。
とはいえ、まとまりがないということは、逆説的にいうと極めて自立的であったとも言えます。そして自立的であるが故に、皇帝や国王も、契約に基づいて、諸侯らと相互的な協力関係を形成し、維持しなければならない必要性に迫られます。
この相互的援助関係のネットワークが封建制であり、「この土壌のうえに権力に頼らない自力救済の精神、自立と固く結びついた名誉を重んじる気風、自己責任に裏打ちされた自由主義が成立し、発展していったのだ」と『決闘裁判~』は論じます。
『決闘裁判~』の文中で引用されるモンテスキューやオーストリアの歴史家オットー・ブルンナー、イェーリングの『権利のための闘争』、ワーグナー『ローエングリン』のワンシーンが、彼らの精神世界を端的に表しているのではないでしょうか。
一対一の決闘による証明は経験にもとづいたある理由をもっていた。
もっぱら戦士的であった国民においては、臆病はその他の悪徳を予想させる。それは、人々が自分の受けた教育に反抗したこと、名誉に敏感でなく、他の人間を支配した諸原理によって指導されもしなかったことを証明する。
少しでも生まれが良ければ、力と結びつくべき技巧についても、勇気と協同すべき力についても、他人の尊敬を重んずることに欠けることは概してないだろう。なぜなら名誉を重んじれば、名誉を得るために欠くことのできない事柄を生涯をかけて修練するであろうからである。
さらに、力、勇気および手柄が尊敬される戦士的な国民においては、真に憎むべき犯罪は、狡猾、奸策そして詭計、つまり臆病から生まれる犯罪なのである。
モンテスキュー(『法の精神』第6部第28編第17章)
名誉がどうして専制君主のもとで容認されるであろうか。それは生命を軽んずることをもって誇りとする。そして、専制君主は生命を奪いうるという理由によってのみ力をもつにすぎない。どうして名誉が専制君主を容認できるであろうか。
名誉は遵守される規則と抑制される気紛れとをもっている。
専制君主はなんの規則ももたず、その気紛れは他のすべての気紛れを破壊する。
モンテスキュー(『法の精神』第1部第3編第8章)
「(侵害された者の)名誉が報復を要求した。報復がフェーデや法廷における訴訟の目的だった」
「不正に耐え復讐を断念することは、名誉の喪失を意味した」
オットー・ブルンナー
ブラーバントの君たる権利は、しかと拙者に属するもの。されば、拙者は力のかぎり、この国を保護し戦いまする。何者であれ、拙者に帰属致したる国に指を触れんとするならば、その者は直ちにこの場にて、仮借なき剣の戦いをもて、拙者から権利を奪い取り、拙者を敗走させねばならぬ。
争いには、容赦なき決闘により、即刻、決着をつけるべし。・・・ブラーバントが拙者のものでないなどと、誓いを立てて申す者とは、拙者はただちに戦って、時を移さず、そやつの手を斬って落としてご覧にいれる。・・・己が権利の主張に際し、証書、文書を盾にするなど、拙者は断じて好まぬ。
平らな羊皮に字を書くときは、勝手気儘を書くものぞ。
さようなものを相手にしては、拙者は裸にされてしまうわ。
さらば高貴の公妃殿は、直ちに剣士を立てられよ。その者と拙者はここに戦い、決闘の結果如何に、ことの決着を委ねようぞ。
闘い勝った者こそが、われらの争いのもととなった、ブラーバントと呼ばるる国を、正当に継ぐと致そうぞ。
(平尾浩三訳「白鳥の騎士」『コンラート作品選』)
■国際法と決闘裁判
決闘裁判は、なによりも自力救済であることが主目的でした。それは、神と結びつきはすれども、神の介入を不可欠とはしない”不純な神判”でした。それゆえ、決闘裁判は、神の介入を求めることが禁止されたあとも、生き延びることができたのだそうです。
権利と名誉を自ら守りうること、それが正義であり、結果は後からついてくる-。戦うことによって自己の正しさ、権利を明らかにするという方式は、もともとキリスト教とは無関係にヨーロッパの慣習として存在していたことだったのです。
その後、ヨーロッパ各国の国内においては世俗的で公権力的な裁判制度が発達したことにより、自力救済色の強い決闘裁判は徐々に廃れていき、制度としての決闘裁判は19世紀に消滅しましたが、その自力救済の精神はアメリカの裁判に代表される”当事者主義”として生き続けているのだそうです。
そして当事者主義と同様に、もしくはそれ以上に決闘裁判の精神に受け継いでいるのが国際法です。
本書『国際法で読み解く戦後史の真実』や倉山先生の多くの著書では『戦争と平和』を著し、国際法の礎を築いたグロチウスは「戦争とは、国家と国家による決闘であると考えていた」と述べられています。戦争も人殺しもなくならない。だからこそ不必要な残虐行為をやめさせようという発想が生まれたのだと。
ここで改めて強調しておきたいのはグロチウスは決して「戦争は神の命令による」とは考えておらず、「自力救済としての戦争」という点にのみ主眼を置いているということです。グロチウスは戦争の正当原因を防衛、物の回復、刑罰の3つとし、宗教的な意味での聖戦的要素を重要とはみなさず、その論拠に自然法を置いたのです。
無神論者ではないため神の存在は否定しませんが、戦争を正しいとする論拠は自然法から導かれ、自然法と神の意志は理論的に完全に切断されたのだとされます。
「自然法は不変であり、神ですらこれを変えることはできない」というグロチウスの言葉はこの文脈で理解されるのだそうです。
そして時代は経て、国際法の概念の理論化はさらに推し進められ、エメリッヒ・ヴァッテルが主権国家の平等性を基軸とした理論を展開。
「対等な主権国家相互のもとでは、一方が正しく、他方が不正であると決めることは出来ない」との論(無差別戦争論)から、「刑罰として戦争」も否定され、戦争は単に紛争に決着をつける最終手段にすぎないもの、殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって終結するものとなります。
この結果、法の意味における”正しさ”とは、戦争の正義、正当原因ではなく、フェア・プレイを意味することとなり、そのフェア・プレイを定める規則が交戦法規、つまり戦時国際法として成立していくのだそうです。
(※ここでは主に『正しい戦争という思想』(山内進・編)を参考にさせて頂きました。)
■日本が進むべき道 徳川家康と今川氏真
本書『国際法で読み解く戦後史の真実』において、倉山先生は「日本が進むべきは“徳川家康の道”か“今川氏真の道”か」と問いかけます。
戦後日本は今川氏真でした。
氏真は、父の今川義元が信長に討たれたことを受けて、家督を継ぎます。しかし、蹴鞠や和歌に熱中した氏真は、国防努力をすることもなく、父の弔い合戦を行なう意思も見せません。要するに”自力救済”を放棄したのです。
今川氏真の描写を見るにつけ、倉山先生の「戦後日本と瓜二つではないか」との主張は、否定し得ない事実であるように思えます。
ならば、日本はこの先、未来永劫、今川氏真として生きる以外方法はないのでしょうか。
今からでも遅くはない、「徳川家康の道」に戻ることもできると倉山先生は指摘します。
確かにそれは今川、武田、織田、そして豊臣秀吉など、常に大国相手の忍耐の日々です。あらゆる理不尽に耐え、知恵を絞り、黙々と働き、富を蓄え、したたかに生き抜く。
何より、安全保障上の重要な同盟国の手伝い戦を命懸けで戦い抜くという、厳しい“茨の道”ではあります。
ですが、守るべき名誉も権利も自由も持たない”臆病者”との誹りを受けて、さらには現実の危機にも他人任せのままの国に何の意味があるのでしょうか?
「我々は恥ずかしい時代を生きている。」
(倉山満著『帝国憲法物語』より)
との言葉が改めて胸に突き刺さってくる思いです。
■日本が徳川家康になるための秘訣は三河武士団にあり!
最後に倉山先生は、日本が徳川家康になるための秘訣についても触れています。
それは、三河武士団です。
常に家康とともにあり、信長の手伝い戦でこき使われようが何をしようが、とにかく全力で戦い、獅子奮迅の働きをしてみせた三河武士団。家康が”茨の道”を行くための最大の武器こそが他でもない、この三河武士団だったのです。
では三河武士団の強さの秘訣は何だったのか?
倉山先生は、その強さの秘訣は三河武士団が“訓令集団”であったことにあると述べます。
訓令集団の何が強いのか。
その詳細については倉山先生の別著『大間違いの織田信長』で述べられていますが、端的に言えば、「支店長クラスの人間が本社CEOである家康が何を考えているのか分かっている」ということです。
ビジネス書の類では、この手の「トップの立場になって考えよう」というフレーズをよく見かけますが、言うは易く行うは難し。現実には実践するのが如何に難しいことなのかということは、会社勤めしている方のみならず、組織に属している方ならご理解いただけるのではないでしょうか。
「トップが何を考えているのか」というのは、そうそう簡単にわかるものではないからです。そもそも単なる一支店長あるいは平社員と、企業トップとでは、集まってくる情報が質・量ともにまるで異なります。自分の手元にはない情報、知らない情報があることを前提に思考しなければならないのですから当然といえば当然です。
「トップの考えなんてすぐに分かる」と思う方がどうかしています。
それでも、一人一人が自らに与えられた役割をこなしつつも、トップの考えを共有し、一つの方向性力を合わせて突き進むことが出来たならば、これほど力強いものはありません。
だからこそ、倉山先生は「一人一人が賢くなることが大事なのだ」だと本書で説いているのではないでしょうか。
これからの日本が今川氏真のままなのか、徳川家康となることができるのか。
それは、私たち一人一人の学びの中にあり、その先にこそ誰にも媚びることなく、卑屈になることなく生きていける国、”文明国”になる道が開けているのだということを教えてくれる一冊です。
おススメです!