書評『嵯峨天皇と文人官僚』井上辰雄著 詩と書を愛した偉大な名君 ~統治(しら)すれども支配(うしはく)せず。ウィキペディアに載らない“象徴天皇の源流“~

書評『嵯峨天皇文人官僚』井上辰雄著

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詩と書を愛した偉大な名君

 ~統治(しら)すれども支配(うしはく)せず。ウィキペディアに載らない“象徴天皇の源流“~

 

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嵯峨天皇の下での君民共治の治世
嵯峨天皇桓武天皇次男であり、兄は平城天皇
ウィキペディアだけをみていると、「淳和上皇らの反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王仁明天皇の皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。」などなど、やたら批判的な表現でもってその生涯が綴られています。
 
ですが、先ごろ出版された憲政史家の倉山満先生の著書『日本一やさしい天皇の講座』においては、父・桓武天皇に勝るとも劣らない偉大な名君であり、「今に至る皇室の形を作った」、「マグナ・カルタより400年も前に、立憲君主の模範を示した」と語られています。
 
また『日本人として知っておきたい皇室のこと』中西輝政日本会議)の江崎道朗先生の論考によれば、今上陛下が皇太子でいらした昭和61年、次のようなお考えを新聞紙上でお述べになられたことがあるそうです。

天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する“嵯峨天皇”以来の天皇の写経の精神や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書によっても表されていると思います。


今上陛下も天皇が国民の象徴であることの原点のひとつとして挙げていらっしゃる、嵯峨天皇
その治世とは一体、どのようなものだったのでしょうか。
より詳しく書かれているものを読んでみたいと思い、手に取ってみたのが本嵯峨天皇文人官僚』です。
そこには、優れた君主と優れた
家臣が織りなす、“君民共治の姿”が見て取れると言えます。
  
■文章は経国の大業、不朽の盛事なり
一般に、嵯峨天皇の治世は、その元号「弘仁」(心が弘く、なさけ深く、弘く仁をほどこす」という意味)をもって「弘仁の治」と呼ばれ、特に「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」を旨とし、文化事業の促進に力を入れた時代とされています。
 
嵯峨天皇自身、空海橘逸勢とともに“三筆”に数えられる、書の達人であり、

叡智は天従にして、艶藻は神授なり。猶、旦、学びて以て聖を助け、問いて裕きを増す
(意味:生まれつき、極めて優れた資質をおもちになられ、詩人としての才能はもともと生得のものであられた。だが、それにも増して、勉学に勤められた)
小野岑守・作『凌雲集』序文より)

 
と極めて優れた資質を有し、詩宴を頻繁に行うことで、朝野の一流の文化人と交流し、漢詩を詠み、史籍を編纂し、それまでの皇室の作法を書にとりまとめ、後世に残しました。
(ちなみに喫茶や日本初の図書館が登場したのも嵯峨天皇の時代だったそうです。)
 
このように文化面での業績が称えられている嵯峨天皇ですが、それ以外の面でも、優れた政治がなされていたことが、本書では明らかにされています。
 
嵯峨天皇の下に集いし、能吏たち ~藩邸の旧臣~
嵯峨天皇自身が文化事業に力を入れていた代わりに、実際の行政面を取り仕切ることで、嵯峨天皇を支えていたのは、”藩邸の旧臣“と称された臣下たちでした。
彼らは嵯峨天皇が皇太弟であった時から皇太弟の東宮坊に奉仕し、神野神王(嵯峨天皇)に近侍していた一群の人々であり、藤原園人藤原冬嗣藤原三守良岑安世、賀陽豊年、小野岑守、滋野貞主、菅原清公ら、“藩邸の旧臣”達は、皆、優れた文化人であるだけでなく、政治家としても或いは官僚としても非常に優秀であったことが記されています。
  
■国を治むる要は、民を富ますに在り ~もうひとつの“民のかまど”~
仁徳天皇「民のかまど」の話は“君民共治”という日本の国柄を表すエピソードとして、つとに有名ですが、嵯峨天皇の治世においても、嵯峨天皇および”藩邸の旧臣“たちによって、「民のかまど」の精神が実践されていたことが伺えます。
特に代表的なものを挙げるならば、初期の「弘仁の治」を支えた、藤原園人の施政でしょう。
 
藤原園人が政治の中枢を担っていた当時は、慢性的な不作が続き、国家財政窮乏が長く続いていた時期でもありました。そのことを誰よりも苦慮していた園人は、執政の最高責任者の立場から財政再建に腐心します。
  
“国庫を潤わす”だけであれば、農民から苛斂誅求(むごく厳しく取り立てること)すれば、事足りますが、園人は国を治むる要は、民を富ますに在りを旨とする政治家でした。
 
園人はあくまで民衆の立場に立って財政再建を果たすという道を選び、改革の道を推進していきます。今でいえば、経済成長なくして財政再建なしといったところでしょうか。
 
例えば、弘仁五年(814年)7月21日には、「大和河内両国遠年未納稲一十三萬四千束免じ、百姓窮乏を以て、弁進に堪えず」として、大和、河内の未納稲、十三万四千束を免じています。
経済成長を一顧だにせず、己の出世のためだけに増税ばかりを推進する現在の財務官僚に、藤原園人の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものです。
 
さらに園人は「応 収納官物 依 本蔵事」という令も出していたそうです。
これは、当時、国司たちが近場の郡から公廨稲(くがいとう。官稲のひとつ)を割り切りがちであったがために、百姓に近隣の郡倉から稲を支給しようとしても、遠い郡の正倉から与えなければならなくなくなっている現状、国司が取りあげやすい郡倉の米穀は減少し、不便な郡は逆に官物が余っている現状を指摘し、「今後はそのようなことは許されない」と、国司の悪習を弾劾するものであったそうです。
 
また、弘仁四年(813年)11月には、捕虜についての建策もしています。
諸国に流刑となった蝦夷に対して、国司らが朝旨に背き、憐み労おうとしないために、蝦夷らが叛逆するのだと指摘し、実際に播磨介、備前介、肥後守らが処分されたようです。
 
諸国の捕虜となった蝦夷らの反乱を一方的に蝦夷側に帰するのではなく、それを管理し、公民化に努めなければならなかった地方の国司の責任を問うたものであると、著者の井上博士は指摘します。
 
この藤原園人の路線は、嵯峨天皇上皇時代を通じて行われ、園人の次に政治の中枢を担うことになる藤原冬嗣らにも引き継がれ継承されていきます。
 
■統治(しら)すれども支配(うしはく)せず
以上のように嵯峨天皇は自ら積極的に政治を動かす立場に身を置こうとはせず、実際の施政は臣下に委ねていました。

 
本書でも詳しく記されていますが、薬子の変における嵯峨天皇指導力を見るに、おそらく嵯峨天皇自身が親政を行っていたとしても、後世に残る優れた政治がなされていた可能性は高いのではないでしょうか。
(例えば、平城上皇側の著名な武人官僚であった文屋綿麻呂に対しては、厚遇し、正四位上に叙し、参議に列せしめたそうです。この厚遇に綿麻呂は感激し、「歓喜踊躍」して、直ちに兵を率いて、宇治、山崎の橋を圧え、京の守護に当たったとか。このあたりのエピソードもウィキペディアではごっそり抜け落ちています。)
 
ですが、嵯峨天皇はそれを敢えて行いませんでした。
むしろ、文化事業に取り組むとともに、飢饉があれば、飢民に賑給を行い、イナゴの害があれば、負稲を免じ、疫病が流行れば、天下の名神に幣を奉じて祈らせるなどを行っていたとされています。
 
このように嵯峨天皇は”統治(しら)すれども支配(うしはく)せずを体現した天皇であり、『日本一やさしい天皇の講座』では嵯峨天皇が生み出した”天皇不親政の伝統”が結果的に皇室を長続きさせる秘訣になった」とも指摘されています。
※「統治(しら)す」と「支配(うしはく)」の違いについては、明治時代を代表する法制官僚である井上毅著の『梧陰存稿』の記述が詳しいです。
  
嵯峨天皇は書の名人というだけでなく、極めて有能な君主であり、「統治(しら)すれども支配(うしはく)せず」即ち”象徴”の体現者にして、その源流ともいうべき天皇であること、また嵯峨天皇を支えた臣下たちも、極めて優れた官僚であったことを窺い知ることができ、大いに参考になりました。
 
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