ビジュアル増補版 書評『ゴジラ幻論 ――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』 #倉谷滋 #工作舎 #本が好き #シン・ゴジラ #シンゴジラ #ゴジラ #進化形態学 #特撮 #怪獣
書評『ゴジラ幻論 ――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』倉谷滋著 工作舎
怪獣映画にサイエンスを一匙
~進化形態学的見地による「虚構」への挑戦、および教授牧悟郎の知られざる狂気~
■従来のゴジラについて
※本書掲「基調講演 シン・ゴジラに確認された新事象をめぐって 財団法人特殊生物研究所主任研究員・博士 山根恭太郎」より抜粋
どうもゴジラは哺乳類か、あるいはそれに準ずる動物(単弓類・後述)であると、こう結論せねばならないようなのであります。
通常、このような場合、『最節約法』と言いまして、「どの仮説が最も矛盾がないか」という基準が用いられるのであります。つまり、動物の進化におきましては、同じ特徴が時折、異なった系統に独立に生じることがある。(中略)つまり、見かけだけの「他人のそら似」なのですな。
やはりゴジラは獣弓類の生き残りか、さもなければ、原始的な哺乳類が異様に進化したものと、こういう結論になるわけですな。
■シン・ゴジラについて
※本書掲「緊急レポート 巨大不明生物への形態発生学的アプローチ 環境省自然環境局野生生物課長代理 尾頭ヒロミ」より抜粋
今回の生物と過去のゴジラの間にはごく少数の表層的類似性が見つかるのみで、それは上のリストのうちの二項目に限られる。つまり、今回のゴジラが過去の同名の生物と同じ系統に属するものであるとの仮説は棄却され、むしろ互いに全く異なった生物であるという仮説がより強く支持されるのである。
さらに今回のゴジラには、いくつかの異なった動物の発生プログラムを組み合わせたような、いわゆる怪物「鵺」を思わせる「キメラ性」を見ないわけにはゆかない。
すなわち、この生物が、何者かによって意図的にデザインせられた分子遺伝学的人工物であるという現在の仮説を積極的に考慮すべきであり・・・具体的には脊椎動物、とりわけ四肢動物の複合的形態形成プログラムを合わせ持つ、人為的に作出された生物であると仮定することが最も適切であると、この中間報告においては判断する。
コーティング遺伝子のアミノ酸配列により、既知の複数の動物種のシグナチャーが検出されたとのことであった。それは部分的に以下の動物に由来することが判明している。
(※以下本文では5種類の動物を列挙。うち一種は霊長類雌雄2個体)
以上が予測される頭頸部発生プログラム設計思想の骨子である。
おそらく、ここに考察した頚頭部問題だけではなく、解剖学的破綻を回避しつつ、ボディプランの齟齬を解消する要は、ゴジラのボディプランに複数箇所あり得、上と同様の辻褄合わせを行うために、異なったボディプランを持つ異なった動物の発生プログラムを適宜挿入する必要が生じ、それによって初めて羊膜類的ゴジラの発生過程に幼生期を挿入することが可能となった同時に、その副産物として器官単位での遺伝子発現プロファイルレベルでのキメリズムが生じたと考えられる。
■怪獣映画にサイエンスを一匙
本書は、”大人になった怪獣少年”とも形容すべき、進化発生生物学者の倉谷滋さんがシン・ゴジラ(あるいは特撮怪獣)を進化形態学、比較形態学の見地から真正面から考察したものであり、これほどまでに怪獣愛に溢れた空想科学読本はそうは見当たらないのではないでしょうか。
なんでも『スタートレック』の作製には、ちゃんとした物理学者がオブザーバーとしてついており、それなりにまっとうな理論を番組に盛り込んでいるのだそう。
「ならば怪獣を愛する形態学者として、形態学的見地から怪獣を味付けせねばなるまい」
という動機のもと、科学的に整合性のある何らかの仮説を踏まえた説明原理を引き出すことによって、人々の怪獣愛を証明し、サポートすることを企図して取り組まれたのが本書なのだそうです。
そんなコンセプトのもと取り組まれた本書は三章構成となっており、ざっくりいうと、
- 第一章:『シン・ゴジラ』におけるゴジラを進化形態学、比較形態学的見地から考察、
- 第二章:その適用範囲を拡げ、さらには古生物学、昆虫学的見地も加味した上で、アンギラス、モスラ、バラン、ラドンの四怪獣を考察
- 第三章:進化形態学などの空想科学は脇に置いて、”完全なる怪獣少年”に立ち返って私的映画史を振り返るエッセイ集
といった趣になっています。
第2章も第3章も純粋に読み物として面白く、是非一読をおススメしたいところではありますが、やはり出色の出来なのは”第1章”でしょう。
■進化形態学、比較形態学的見地からみたゴジラの正体
第1章では1954年初代「ゴジラ」の山根恭平博士の孫なる人物(山根恭太郎)による講演録、映画で人気を博した女性科学者・尾頭ヒロミによる中間報告書という体裁で考察が加えられ、
- 過去のゴジラを強いて分類するとすれば、原始的哺乳類になる。
- 『シン・ゴジラ』におけるゴジラは過去のゴジラと似て非なるものである。
- 今回のゴジラは何者かによって意図的にデザインせられた分子遺伝学的人工物であり、複数の動物種の要素が混じり合ったキメラ的複合体である。
という結論が導き出されています。
この結論だけを聞くと、それほど突飛な結論というわけではなく、ファンの間で議論されている内容と大差ないように思われるかもしれませんが、むしろこの結論に至るまでの100ページ近くに及ぶ論説、考察を読むのが知的好奇心をくすぐります。
例えば、『シン・ゴジラ』版のゴジラの印象的なシーンとして、背中から熱線を全方位に放射するシーンがありますが、それについては、以下のような仮説でもって説明がなされています。
※再び本書掲「緊急レポート 巨大不明生物への形態発生学的アプローチ 環境省自然環境局野生生物課長代理 尾頭ヒロミ」より抜粋
一つは、ゴジラの個体発生における二次神経管形成が、通常とは極めて異なった様式で進行するという可能性であり、結果、ホヤのオタマジャクシ幼生にみるように、内胚葉細胞よりなる索状構造が前後軸にそって尾の先端にまで伸長し、それがゴジラにおいて管腔を形成するに至ったという解釈である。
いま一つの可能性は、恐竜類(鳥類をも含む)に見るように、内胚葉上皮から膨出した「気嚢」と呼ばれる袋状構造が肺に多数形成され、体各部に伸び出し、その多くが背側正中の背鰭構造に終わり、そしてさらに一本の管が尾の先端に向かったというものである。
後者が尾部の脊柱に沿い、背面に近い位置を走っていると仮定すると、それは、熱線の放射に先立ち、放射光が徐々に尾に沿って漏れ出す現象を上手く説明する。
さらにいうまでもなく、後者の仮説は、尾の先端だけではなく、東京の蹂躙と「ヤシオリ作戦」発動時に明らかになったように、背鰭から熱線が発せられることをもよく説明する。
ハッキリ言って専門的なことはチンプンカンプンですが(苦笑)、どうやら鳥類などに特徴的な「気嚢」というものがゴジラにも備わっているのだとしたら、かの放射シーンについても科学に裏付けされた説明が成立するようだということだけはわかります。
本書全編を通じて、このような形でゴジラ(およびその他の怪獣)について考察が加えられているのですから、面白くないはずがありません。
■教授・牧悟郎の知られざる狂気
※本書掲ゴジラ問題調査委員会中間報告書「牧悟郎博士の日記」より抜粋
それは確かに生きておった。
生きてはいたのだが、そいつらはどれもこれも私の望んだ怪物たちではなかった。そいつらは、時に何本もの足を生やし、時に頭が二つあり、かと思うと顎がなく、あるいは頭に無数の目ができておった。
(中略)そうだとも。手を汚すのは、いつも私の仕事だ。それくらいのことはわかっている。
私は今日、この手で私自身を殺した。これから幾度、同じ「殺人」を繰り返さねばならぬのか。無力で無抵抗な「私」を殺しては、幾種かの腺上皮細胞を剥離し、培養、初期化してはクローンを生み出し続ける。
(中略)メスで切断した瞬間、その小さな「私」は、「ひゅーっ」と微かな声を上げた・・・ように思われた。
(中略)それは果たして誰の声であったのか。私自身のものなのか。
それとも・・・。
そして、本書を更なる高みに導いているのが、今回のゴジラを作った本人とされている牧悟郎博士の日記を後日、ゴジラ問題調査委員会が発見・解読したという体裁で描かれている「牧悟郎博士の日記」であることに異論がある方は少ないのではないでしょうか。
ヒューバート ヴェナブルズ著『フランケンシュタインの日記』へのオマージュとして書かれた『日誌』には、生命とすら呼べない単なる細胞の集まりが、永遠とも思える培養~育成~淘汰の繰り返しを経て、のちに「ゴジラ」と呼ばれるものの幼体へとなっていく様と、それと同時並行して牧悟郎博士が壊れていく様子が描かれています。
・幾兆もの細胞が培養され、
・幾億もの“生物ならざるもの”が生み出され、
・幾万もの“生物らしきもの”が、その姿を維持することすらままならず、朽ち果てていき、
・幾千もの”ゴジラならざるもの“が「ゴジラではない」という理由で”廃棄“されていく・・・
それはさながら手や足、内臓、目、鼻までをつなぎ合わせて作られたフランケンシュタインというよりも、培養液から生まれた“人間になれなかった人造生物”、「妖怪人間ベム」の誕生シーンのそれを彷彿とさせます。
「妖怪人間ベム」の場合は、フラスコの中の培養液が変化し、ヒトに変わりますが、それを時系列を追って丹念にリアルに描写していれば、まさしく上記のような”プロセス“を経たものになるのではないでしょうか。
それと同時に、牧博士が、そのゴジラになり得なかったものを「私自身」、あるいは「私の子供」と述べ、自らの行いを「殺人」と言い、自らの身体が「呪われていくようだ」と述べているところに否が応でも目を惹きつけられてしまいます。
本書においては「ゴジラは複数の動物種に由来するキメラ的複合体である」という仮説が唱えられ、その複数種の中には霊長類の雌雄2個体のゲノムが検出されたという設定になっていますが、暗にそれを裏付けるような資料になっているというのも心憎いばかりの手法であると言えます。
■虚構の中の現実
おそらく、本書のような本が10年前に出版されていたならば、「よく出来た空想科学本」という程度の評価にしかならなかったのではないでしょうか。
それは結論としての「キメラ的複合体」という答えにリアリティを持たせることができなかったからではないかと思えるからです。
ですが、今では現実社会においても遺伝子編集技術「CRISPR」の発明により、ヒトの細胞をもつブタが生み出されている現実(byナショナルジオグラフィック2017.01.31「ヒトの細胞もつブタ胎児の作製に成功」)を思うと、「キメラ的複合体」という解にリアリティがないとすることの方が困難です。
実際、“現実”の内閣府でも「ヒトと動物のキメラをめぐる倫理的問題と今後の課題」(2012.1.17報告)という報告書が提出され、
- 「ヒト」と「動物」の境界はどこか?
- 社会はどこに、何をもって線引きを行うのか?
- ヒトのどのような特性をもつヒトと動物のキメラを作成してよいか?
- ヒトの記憶力を持つマウスの作成は?
- ヒトの皮膚を持つサルの作成は?
といったことが真剣に議論されているようです。
こう思うと、牧悟郎博士は「私は好きにした。君たちも好きにしろ」という遺書のような文章を残し、忽然と姿を消しましたが、「君たち」とは、他でもないスクリーンの外側にいる、”現実社会に生きる私たち”のことを指しているのではないか。
こんな風に思えるほど、虚構と現実の融合に成功した稀に見る好書といるのではないでしょうか。
おススメです!