ビジュアル増補版 書評『国際法で読み解く戦後史の真実 文明の近代、野蛮な現代』 決闘って何?ヨーロッパ法精神の原風景と三河武士団 #倉山満 #PHP研究所 #国際法 #世界史 #歴史 #決闘裁判

書評『国際法で読み解く戦後史の真実 文明の近代、野蛮な現代』

倉山満著 PHP研究所

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決闘って何?ヨーロッパ法精神の原風景と三河武士団

 

■概要

嘘らだけシリーズ』でおなじみ倉山満先生の『国際法で読み解く世界史の真実』の続編!

前作『~世界史の真実』は国際法の成立から崩壊までをローマ帝国から第二次世界大戦の始まりまでを描いたものでした。

その姉妹本にあたる本書は、第二次世界大戦以降から現代に至るまでの現代史をつぶさに書き上げることで、

  • アメリカ、ロシア、中国という、”国際法の何たるかを理解しない国”よって、いかにして国際法は踏みにじられ、世界は野蛮化していったのか。
  • 野蛮化した国際社会の中で戦後日本はどのような道を歩んできたのか。

を論じた一冊であり、特に戦後の国際社会を読み解く上でも、日本の姿を語る上での欠くことのできない要素として国際法の概念が随所に用いられています。

ここでは、本書はもちろんのこと、倉山先生の他の著書でも国際法に触れる時には、必ずと言っていいほど登場するフレーズである国際法の原点は中世ヨーロッパにおける”決闘のルール”である」というフレーズに着目して考察を加えてみたいと思います。

■決闘って何?~国際法の原点、ヨーロッパ法精神の原風景を探る~

あらためて、本書はもちろんのこと、倉山先生の他の著書でも国際法に触れる時には、必ずと言っていいほど登場するフレーズといえば、国際法の原点は中世ヨーロッパにおける”決闘のルール”である」というフレーズでしょう。

では国際法の原点は決闘のルールであるならば、中世ヨーロッパにおける”決闘”とは一体どういうものだったのでしょうか。

またその”決闘”が表現していた当時のヨーロッパ人の精神世界とはどのようなものだったのでしょうか。

知っているようで実は知らない”決闘”のことがわかれば、国際法への理解もより深まるのではないかと思い、『帝国憲法の真実』でも参考文献として掲載されている山内進『決闘裁判-ヨーロッパ法精神の原風景』を手に取ってみました。 

 

■決闘の変遷

決闘の変遷①~神の裁き~

決闘の起源は古く、キリスト教が広まる以前の古代ゲルマンの時代に遡ることができるそうです。

タキトゥスが記した『ゲルマーニア』には、決闘の原型とも言うべき慣習についての記述があり、ゲルマン諸族の間には敵族の捕虜と自族の戦士を戦わせ、その結果を“神意”と見立て、戦争の行く末を占うという慣習があったのだそうです。

この「勝負の結果とは神の判決である」とみなす考え方は、時代を経るに従い、当初の部族間(集団)の紛争から徐々に個人間の紛争においても適用されるようになっていきます。当時のゲルマン諸族の心理を『ローマ帝国衰亡史』で有名なキボンはこう記したのだそうです。

「この連中は勇者が刑に値し、臆病者が生きるに値するなどとは信じ得なかったのだ。係争が民事刑事のいずれたるとを問わず、原告あるいは告発者も被告も、いや時に証人すらも、合法的根拠を持たぬ相手からの生死を懸けた挑戦にさらされており、そうなった場合、自己の言い分を放棄するか、あるいは公開の決闘の場で名誉を維持するかを選ぶのが義務とされた。」

         

決闘の変遷②~神判としての決闘~

こういった世界観が定着していたところにキリスト教の教えが広まり、混じり合うことで決闘は、「決闘裁判」という”神判”に変貌していきます。

(ちなみに決闘裁判以外の”神判”は熱湯裁判、熱鉄裁判、冷水裁判。熱湯に手を入れて火傷をしたならば有罪、無傷なら無罪、冷水の中に身を投げて浮かんだら有罪、沈んだままなら無罪という類のものです。『決闘裁判~』では決闘裁判以外の神判についても詳しく記述されており、それはそれで興味深いのですが、話が逸れてしまうのでここでは省略致します。)

当時の中世ヨーロッパと言えば最先端の文明地域かと言えば決してそんなことは無く、血と暴力に彩られた”辺境の地”に他なりません。宗教勢力や王様、貴族が群雄割拠している状態であり、皆を従わせることができる集権的権力が不在の、まとまりのない野蛮な世界です。

とりわけキリスト教に代表される宗教勢力は「人を殺してはならない」と民衆に説くどころか、魔女狩り」「異端尋問」などと称して率先して人殺しを行っていた、あるいは(自らの手を汚さずに)国王や貴族に人殺しをやらせていた集団であったことは、最強の教皇インノケンティウス3世の「すべてを殺せ。主はすべてを知りたまう。」を思い起こせば、くららファンの方ならご理解頂けるのではないでしょうか。

そんな野蛮な世界の中で自らの権利や財産を守りたくば、どうすればよいのか。

奪われた時にどうすればよいのか。

手段はたった一つ、実力行使(自力救済。Fehdeフェーデとも呼ばれる)に訴える以外自らの権利を取り戻す術はないということです。

そんな実力行使に大義名分を与えてくれたのが「判決は神の裁きである」とする”神判”でした。

 

戦いの結果は神の裁きであり、神意である―。

神様が相手では、誰も文句が言えないのも当然です。

確かに生来のゲルマン諸族の世界観、価値観が根本にあるのでしょうが、決闘が神判として受け入れられたのは、むしろ結果に対して誰にも文句を言わせないための”生存のための知恵”であったようにも思えてなりません。

(当時の決闘裁判の様子を描いた絵画) 

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決闘の変遷③~合法的自力救済~

”神判”となった”決闘裁判”はルール化され、裁判に訴えるための手続き、代理人(決闘士)を立てる場合の許可、男女で争うことになった場合の決闘方法(男は地面に掘られた穴に半身を埋め、片手でしか戦えないようにする)、決闘する場合の服装、使える武器、ルールを犯した場合の罰則・制裁方法などが定められ、中世ヨーロッパにおいては合法的な法制度、合法的な自力救済として確立されていきます。

 

※ちょっと笑えるイラストですが、これが正規のマニュアルだったそうw

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さらに注目すべきは「決闘の最中においても和解が可能だった」とされていることです。

イングランドを例に挙げれば、和解は戦いの始まった直後でも、形勢が明らかになった時点でも構わなく、和解のためには裁判官に罰金を支払う必要がありましたが、和解の内容は当事者に委ねられていました。不利な方は、当然、不利なかたちで和解せざるを得なかったでしょうが、このような和解のかたちがあったおかげで、イングランドでは決闘士が死ぬまで戦うことは殆どなかったのだそうです。

 

神判の名の下に決闘するだけでなく、裁判の内外で和解によって互いの面子を保ち、応分の利益を分かち合う。さらに和解の後に互いに何かを贈与することで、相互の絆を新たに作り上げるか、絆を回復し強めることも珍しいことではなかったのだそうです。

 

■自由と名誉、権利のための闘争

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前述のように、まとまりのない野蛮な世界だった中世ヨーロッパ。皆を従わせることができる集権的権力の登場はフランスのリシュリューによる絶対王権の確立、その後の主権国家”の登場まで待たねばなりません。

とはいえ、まとまりがないということは、逆説的にいうと極めて自立的であったとも言えます。そして自立的であるが故に、皇帝や国王も、契約に基づいて、諸侯らと相互的な協力関係を形成し、維持しなければならない必要性に迫られます。 

この相互的援助関係のネットワークが封建制であり、「この土壌のうえに権力に頼らない自力救済の精神、自立と固く結びついた名誉を重んじる気風、自己責任に裏打ちされた自由主義が成立し、発展していったのだ」と『決闘裁判~』は論じます。

『決闘裁判~』の文中で引用されるモンテスキューオーストリアの歴史家オットー・ブルンナー、イェーリング『権利のための闘争』ワーグナーローエングリン』のワンシーンが、彼らの精神世界を端的に表しているのではないでしょうか。

一対一の決闘による証明は経験にもとづいたある理由をもっていた。

もっぱら戦士的であった国民においては、臆病はその他の悪徳を予想させる。それは、人々が自分の受けた教育に反抗したこと、名誉に敏感でなく、他の人間を支配した諸原理によって指導されもしなかったことを証明する。

少しでも生まれが良ければ、力と結びつくべき技巧についても、勇気と協同すべき力についても、他人の尊敬を重んずることに欠けることは概してないだろう。なぜなら名誉を重んじれば、名誉を得るために欠くことのできない事柄を生涯をかけて修練するであろうからである。

さらに、力、勇気および手柄が尊敬される戦士的な国民においては、真に憎むべき犯罪は、狡猾、奸策そして詭計、つまり臆病から生まれる犯罪なのである。

モンテスキュー(『法の精神』第6部第28編第17章)

名誉がどうして専制君主のもとで容認されるであろうか。それは生命を軽んずることをもって誇りとする。そして、専制君主は生命を奪いうるという理由によってのみ力をもつにすぎない。どうして名誉が専制君主を容認できるであろうか。

名誉は遵守される規則と抑制される気紛れとをもっている。

専制君主はなんの規則ももたず、その気紛れは他のすべての気紛れを破壊する。

モンテスキュー(『法の精神』第1部第3編第8章)

 

「(侵害された者の)名誉が報復を要求した。報復がフェーデや法廷における訴訟の目的だった」

「不正に耐え復讐を断念することは、名誉の喪失を意味した」

オットー・ブルンナー

 

ブラーバントの君たる権利は、しかと拙者に属するもの。されば、拙者は力のかぎり、この国を保護し戦いまする。何者であれ、拙者に帰属致したる国に指を触れんとするならば、その者は直ちにこの場にて、仮借なき剣の戦いをもて、拙者から権利を奪い取り、拙者を敗走させねばならぬ。 

争いには、容赦なき決闘により、即刻、決着をつけるべし。・・・ブラーバントが拙者のものでないなどと、誓いを立てて申す者とは、拙者はただちに戦って、時を移さず、そやつの手を斬って落としてご覧にいれる。・・・己が権利の主張に際し、証書、文書を盾にするなど、拙者は断じて好まぬ。

平らな羊皮に字を書くときは、勝手気儘を書くものぞ。

さようなものを相手にしては、拙者は裸にされてしまうわ。 

さらば高貴の公妃殿は、直ちに剣士を立てられよ。その者と拙者はここに戦い、決闘の結果如何に、ことの決着を委ねようぞ。

闘い勝った者こそが、われらの争いのもととなった、ブラーバントと呼ばるる国を、正当に継ぐと致そうぞ。

(平尾浩三訳「白鳥の騎士」『コンラート作品選』)

byザハセン公(ワーグナーローエングリン』ではフリードリヒ)

 ■国際法と決闘裁判

決闘裁判は、なによりも自力救済であることが主目的でした。それは、神と結びつきはすれども、神の介入を不可欠とはしない”不純な神判”でした。それゆえ、決闘裁判は、神の介入を求めることが禁止されたあとも、生き延びることができたのだそうです。

権利と名誉を自ら守りうること、それが正義であり、結果は後からついてくる-。戦うことによって自己の正しさ、権利を明らかにするという方式は、もともとキリスト教とは無関係にヨーロッパの慣習として存在していたことだったのです。

その後、ヨーロッパ各国の国内においては世俗的で公権力的な裁判制度が発達したことにより、自力救済色の強い決闘裁判は徐々に廃れていき、制度としての決闘裁判は19世紀に消滅しましたが、その自力救済の精神はアメリカの裁判に代表される”当事者主義”として生き続けているのだそうです。

そして当事者主義と同様に、もしくはそれ以上に決闘裁判の精神に受け継いでいるのが国際法です。

本書『国際法で読み解く戦後史の真実』や倉山先生の多くの著書では『戦争と平和』を著し、国際法の礎を築いたグロチウス「戦争とは、国家と国家による決闘であると考えていた」と述べられています。戦争も人殺しもなくならない。だからこそ不必要な残虐行為をやめさせようという発想が生まれたのだと。

ここで改めて強調しておきたいのはグロチウスは決して「戦争は神の命令による」とは考えておらず、「自力救済としての戦争」という点にのみ主眼を置いているということです。グロチウスは戦争の正当原因を防衛、物の回復、刑罰の3つとし、宗教的な意味での聖戦的要素を重要とはみなさず、その論拠に自然法を置いたのです。

無神論者ではないため神の存在は否定しませんが、戦争を正しいとする論拠は自然法から導かれ、自然法と神の意志は理論的に完全に切断されたのだとされます。 

自然法は不変であり、神ですらこれを変えることはできない」というグロチウスの言葉はこの文脈で理解されるのだそうです。

そして時代は経て、国際法の概念の理論化はさらに推し進められ、エメリッヒ・ヴァッテルが主権国家の平等性を基軸とした理論を展開。

「対等な主権国家相互のもとでは、一方が正しく、他方が不正であると決めることは出来ない」との論(無差別戦争論から、「刑罰として戦争」も否定され、戦争は単に紛争に決着をつける最終手段にすぎないもの、殲滅と支配ではなく、賠償と条約によって終結するものとなります。

この結果、法の意味における”正しさ”とは、戦争の正義、正当原因ではなく、フェア・プレイを意味することとなり、そのフェア・プレイを定める規則が交戦法規、つまり戦時国際法として成立していくのだそうです。

(※ここでは主に『正しい戦争という思想』(山内進・編)を参考にさせて頂きました。)

■日本が進むべき道 徳川家康今川氏真

本書『国際法で読み解く戦後史の真実』において、倉山先生は「日本が進むべきは“徳川家康の道”か“今川氏真の道”か」と問いかけます。

戦後日本は今川氏真でした。

氏真は、父の今川義元が信長に討たれたことを受けて、家督を継ぎます。しかし、蹴鞠や和歌に熱中した氏真は、国防努力をすることもなく、父の弔い合戦を行なう意思も見せません。要するに”自力救済”を放棄したのです。

今川氏真の描写を見るにつけ、倉山先生の「戦後日本と瓜二つではないか」との主張は、否定し得ない事実であるように思えます。

ならば、日本はこの先、未来永劫、今川氏真として生きる以外方法はないのでしょうか。

今からでも遅くはない、「徳川家康の道」に戻ることもできると倉山先生は指摘します。

確かにそれは今川、武田、織田、そして豊臣秀吉など、常に大国相手の忍耐の日々です。あらゆる理不尽に耐え、知恵を絞り、黙々と働き、富を蓄え、したたかに生き抜く。

何より、安全保障上の重要な同盟国の手伝い戦を命懸けで戦い抜くという、厳しい“茨の道”ではあります。

ですが、守るべき名誉も権利も自由も持たない”臆病者”との誹りを受けて、さらには現実の危機にも他人任せのままの国に何の意味があるのでしょうか?

「我々は恥ずかしい時代を生きている。」

倉山満著『帝国憲法物語』より)

 との言葉が改めて胸に突き刺さってくる思いです。

■日本が徳川家康になるための秘訣は三河武士団にあり!

最後に倉山先生は、日本が徳川家康になるための秘訣についても触れています。

それは、三河武士団です。

常に家康とともにあり、信長の手伝い戦でこき使われようが何をしようが、とにかく全力で戦い、獅子奮迅の働きをしてみせた三河武士団。家康が”茨の道”を行くための最大の武器こそが他でもない、この三河武士団だったのです。 

では三河武士団の強さの秘訣は何だったのか?

倉山先生は、その強さの秘訣は三河武士団が“訓令集団”であったことにあると述べます。

訓令集団の何が強いのか。

その詳細については倉山先生の別著『大間違いの織田信長で述べられていますが、端的に言えば、「支店長クラスの人間が本社CEOである家康が何を考えているのか分かっている」ということです。

ビジネス書の類では、この手の「トップの立場になって考えよう」というフレーズをよく見かけますが、言うは易く行うは難し。現実には実践するのが如何に難しいことなのかということは、会社勤めしている方のみならず、組織に属している方ならご理解いただけるのではないでしょうか。

「トップが何を考えているのか」というのは、そうそう簡単にわかるものではないからです。そもそも単なる一支店長あるいは平社員と、企業トップとでは、集まってくる情報が質・量ともにまるで異なります。自分の手元にはない情報、知らない情報があることを前提に思考しなければならないのですから当然といえば当然です。

「トップの考えなんてすぐに分かる」と思う方がどうかしています。

それでも、一人一人が自らに与えられた役割をこなしつつも、トップの考えを共有し、一つの方向性力を合わせて突き進むことが出来たならば、これほど力強いものはありません。

だからこそ、倉山先生は「一人一人が賢くなることが大事なのだ」だと本書で説いているのではないでしょうか。

 

これからの日本が今川氏真のままなのか、徳川家康となることができるのか。

それは、私たち一人一人の学びの中にあり、その先にこそ誰にも媚びることなく、卑屈になることなく生きていける国、”文明国”になる道が開けているのだということを教えてくれる一冊です。

 

おススメです! 

 

本が好き!書評PVランキング 18/02/05 - 18/02/11 #本が好き #書評 #ランキング

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2018/02/05 - 2018/02/11

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第2位 『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』

内藤陽介著 えにし書房

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第3位:『世界の歴史はウソばかり』

倉山満著 ビジネス社

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第4位:『川中島合戦』

海上知明著 原書房

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第5位:真実の日米開戦 隠ぺいされた近衛文麿の戦争責任

倉山満著 宝島社

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第6位:『国際法で読み解く戦後史の真実』

倉山満著 PHP研究所

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第8位:『日本は誰と戦ったのか』

江崎道朗著 ベストセラーズ

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第10位:ホンカク読本 ライター直伝!超実践的文章講座

森末祐二著 パレード

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ビジュアル増補版 書評『ゴジラ幻論 ――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』 #倉谷滋 #工作舎 #本が好き #シン・ゴジラ #シンゴジラ #ゴジラ #進化形態学 #特撮 #怪獣

書評『ゴジラ幻論 ――日本産怪獣類の一般と個別の博物誌』倉谷滋著 工作舎

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怪獣映画にサイエンスを一匙

~進化形態学的見地による「虚構」への挑戦、および教授牧悟郎の知られざる狂気~

 

■従来のゴジラについて

※本書掲「基調講演 シン・ゴジラに確認された新事象をめぐって 財団法人特殊生物研究所主任研究員・博士 山根恭太郎」より抜粋

どうもゴジラは哺乳類か、あるいはそれに準ずる動物(単弓類・後述)であると、こう結論せねばならないようなのであります。

通常、このような場合、『最節約法』と言いまして、「どの仮説が最も矛盾がないか」という基準が用いられるのであります。つまり、動物の進化におきましては、同じ特徴が時折、異なった系統に独立に生じることがある。(中略)つまり、見かけだけの「他人のそら似」なのですな。

やはりゴジラ獣弓類の生き残りか、さもなければ、原始的な哺乳類が異様に進化したものと、こういう結論になるわけですな。 

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シン・ゴジラについて

本書掲「緊急レポート 巨大不明生物への形態発生学的アプローチ 環境省自然環境局野生生物課長代理 尾頭ヒロミより抜粋

今回の生物と過去のゴジラの間にはごく少数の表層的類似性が見つかるのみで、それは上のリストのうちの二項目に限られる。つまり、今回のゴジラが過去の同名の生物と同じ系統に属するものであるとの仮説は棄却され、むしろ互いに全く異なった生物であるという仮説がより強く支持されるのである。

さらに今回のゴジラには、いくつかの異なった動物の発生プログラムを組み合わせたような、いわゆる怪物「鵺」を思わせる「キメラ性」を見ないわけにはゆかない。
すなわち、この生物が、何者かによって意図的にデザインせられた分子遺伝学的人工物であるという現在の仮説を積極的に考慮すべきであり・・・具体的には脊椎動物、とりわけ四肢動物の複合的形態形成プログラムを合わせ持つ、人為的に作出された生物であると仮定することが最も適切であると、この中間報告においては判断する。

コーティング遺伝子のアミノ酸配列により、既知の複数の動物種のシグナチャーが検出されたとのことであった。それは部分的に以下の動物に由来することが判明している。
(※以下本文では5種類の動物を列挙。うち一種は霊長類雌雄2個体

以上が予測される頭頸部発生プログラム設計思想の骨子である。
おそらく、ここに考察した頚頭部問題だけではなく、解剖学的破綻を回避しつつ、ボディプランの齟齬を解消する要は、ゴジラのボディプランに複数箇所あり得、上と同様の辻褄合わせを行うために、異なったボディプランを持つ異なった動物の発生プログラムを適宜挿入する必要が生じ、それによって初めて羊膜類的ゴジラの発生過程に幼生期を挿入することが可能となった同時に、その副産物として器官単位での遺伝子発現プロファイルレベルでのキメリズムが生じたと考えられる。

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■怪獣映画にサイエンスを一匙

本書は、”大人になった怪獣少年”とも形容すべき、進化発生生物学者の倉谷滋さんがシン・ゴジラ(あるいは特撮怪獣)を進化形態学、比較形態学の見地から真正面から考察したものであり、これほどまでに怪獣愛に溢れた空想科学読本はそうは見当たらないのではないでしょうか。

なんでも『スタートレック』の作製には、ちゃんとした物理学者がオブザーバーとしてついており、それなりにまっとうな理論を番組に盛り込んでいるのだそう。

「ならば怪獣を愛する形態学者として、形態学的見地から怪獣を味付けせねばなるまい」

 という動機のもと、科学的に整合性のある何らかの仮説を踏まえた説明原理を引き出すことによって、人々の怪獣愛を証明し、サポートすることを企図して取り組まれたのが本書なのだそうです。

そんなコンセプトのもと取り組まれた本書は三章構成となっており、ざっくりいうと、

  • 第一章:シン・ゴジラ』におけるゴジラを進化形態学、比較形態学的見地から考察、
  • 第二章:その適用範囲を拡げ、さらには古生物学、昆虫学的見地も加味した上で、アンギラスモスラ、バラン、ラドンの四怪獣を考察
  • 第三章:進化形態学などの空想科学は脇に置いて、”完全なる怪獣少年”に立ち返って私的映画史を振り返るエッセイ集

といった趣になっています。

第2章も第3章も純粋に読み物として面白く、是非一読をおススメしたいところではありますが、やはり出色の出来なのは”第1章”でしょう。 

進化形態学、比較形態学的見地からみたゴジラの正体

第1章では1954年初代「ゴジラ」の山根恭平博士の孫なる人物(山根恭太郎)による講演録、映画で人気を博した女性科学者・尾頭ヒロミによる中間報告書という体裁で考察が加えられ、 

  • 過去のゴジラを強いて分類するとすれば、原始的哺乳類になる。
  • シン・ゴジラ』におけるゴジラは過去のゴジラ似て非なるものである。
  • 今回のゴジラは何者かによって意図的にデザインせられた分子遺伝学的人工物であり、複数の動物種の要素が混じり合ったキメラ的複合体である。

という結論が導き出されています。
この結論だけを聞くと、それほど突飛な結論というわけではなく、ファンの間で議論されている内容と大差ないように思われるかもしれませんが、むしろこの結論に至るまでの100ページ近くに及ぶ論説、考察を読むのが知的好奇心をくすぐります。
例えば、『シン・ゴジラ』版のゴジラの印象的なシーンとして、背中から熱線を全方位に放射するシーンがありますが、それについては、以下のような仮説でもって説明がなされています。

  

再び本書掲「緊急レポート 巨大不明生物への形態発生学的アプローチ 環境省自然環境局野生生物課長代理 尾頭ヒロミ」より抜粋

一つは、ゴジラの個体発生における二次神経管形成が、通常とは極めて異なった様式で進行するという可能性であり、結果、ホヤのオタマジャクシ幼生にみるように、内胚葉細胞よりなる索状構造が前後軸にそって尾の先端にまで伸長し、それがゴジラにおいて管腔を形成するに至ったという解釈である。

いま一つの可能性は、恐竜類(鳥類をも含む)に見るように、内胚葉上皮から膨出した「気嚢」と呼ばれる袋状構造が肺に多数形成され、体各部に伸び出し、その多くが背側正中の背鰭構造に終わり、そしてさらに一本の管が尾の先端に向かったというものである。

後者が尾部の脊柱に沿い、背面に近い位置を走っていると仮定すると、それは、熱線の放射に先立ち、放射光が徐々に尾に沿って漏れ出す現象を上手く説明する。
さらにいうまでもなく、後者の仮説は、尾の先端だけではなく、東京の蹂躙と「ヤシオリ作戦」発動時に明らかになったように、背鰭から熱線が発せられることをもよく説明する。

ハッキリ言って専門的なことはチンプンカンプンですが(苦笑)、どうやら鳥類などに特徴的な「気嚢」というものがゴジラにも備わっているのだとしたら、かの放射シーンについても科学に裏付けされた説明が成立するようだということだけはわかります。
本書全編を通じて、このような形でゴジラ(およびその他の怪獣)について考察が加えられているのですから、面白くないはずがありません。

■教授・牧悟郎の知られざる狂気

※本書掲ゴジラ問題調査委員会中間報告書「牧悟郎博士の日記」より抜粋

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それは確かに生きておった。

生きてはいたのだが、そいつらはどれもこれも私の望んだ怪物たちではなかった。そいつらは、時に何本もの足を生やし、時に頭が二つあり、かと思うと顎がなく、あるいは頭に無数の目ができておった。

(中略)そうだとも。手を汚すのは、いつも私の仕事だ。それくらいのことはわかっている。

私は今日、この手で私自身を殺した。これから幾度、同じ「殺人」を繰り返さねばならぬのか。無力で無抵抗な「私」を殺しては、幾種かの腺上皮細胞を剥離し、培養、初期化してはクローンを生み出し続ける。

(中略)メスで切断した瞬間、その小さな「私」は、「ひゅーっ」と微かな声を上げた・・・ように思われた。

(中略)それは果たして誰の声であったのか。私自身のものなのか。

それとも・・・。

 

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そして、本書を更なる高みに導いているのが、今回のゴジラを作った本人とされている牧悟郎博士の日記を後日、ゴジラ問題調査委員会が発見・解読したという体裁で描かれている「牧悟郎博士の日記」であることに異論がある方は少ないのではないでしょうか。

ヒューバート ヴェナブルズ著『フランケンシュタインの日記』へのオマージュとして書かれた『日誌』には、生命とすら呼べない単なる細胞の集まりが、永遠とも思える培養~育成~淘汰の繰り返しを経て、のちにゴジラ」と呼ばれるものの幼体へとなっていく様と、それと同時並行して牧悟郎博士が壊れていく様子が描かれています。 

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・幾兆もの細胞が培養され、

・幾億もの“生物ならざるもの”が生み出され、

・幾万もの“生物らしきもの”が、その姿を維持することすらままならず、朽ち果てていき、

・幾千もの”ゴジラならざるもの“が「ゴジラではない」という理由で”廃棄“されていく・・・

それはさながら手や足、内臓、目、鼻までをつなぎ合わせて作られたフランケンシュタインというよりも、培養液から生まれた“人間になれなかった人造生物”、妖怪人間ベム」の誕生シーンのそれを彷彿とさせます。

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妖怪人間ベム」の場合は、フラスコの中の培養液が変化し、ヒトに変わりますが、それを時系列を追って丹念にリアルに描写していれば、まさしく上記のような”プロセス“を経たものになるのではないでしょうか。

それと同時に、牧博士が、そのゴジラになり得なかったものを「私自身」、あるいは「私の子供」と述べ、自らの行いを「殺人」と言い、自らの身体が「呪われていくようだ」と述べているところに否が応でも目を惹きつけられてしまいます。

本書においてはゴジラは複数の動物種に由来するキメラ的複合体である」という仮説が唱えられ、その複数種の中には霊長類の雌雄2個体のゲノムが検出されたという設定になっていますが、暗にそれを裏付けるような資料になっているというのも心憎いばかりの手法であると言えます。

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虚構の中の現実

おそらく、本書のような本が10年前に出版されていたならば、「よく出来た空想科学本」という程度の評価にしかならなかったのではないでしょうか。
それは結論としての「キメラ的複合体」という答えにリアリティを持たせることができなかったからではないかと思えるからです。

ですが、今では現実社会においても遺伝子編集技術「CRISPR」の発明により、ヒトの細胞をもつブタが生み出されている現実(byナショナルジオグラフィック2017.01.31「ヒトの細胞もつブタ胎児の作製に成功」)を思うと、「キメラ的複合体」という解にリアリティがないとすることの方が困難です。  

実際、“現実”の内閣府でも「ヒトと動物のキメラをめぐる倫理的問題と今後の課題」(2012.1.17報告)という報告書が提出され、

  • 「ヒト」と「動物」の境界はどこか?
  • 社会はどこに、何をもって線引きを行うのか?
  • ヒトのどのような特性をもつヒトと動物のキメラを作成してよいか?
  • ヒトの記憶力を持つマウスの作成は?
  • ヒトの皮膚を持つサルの作成は?

といったことが真剣に議論されているようです。

こう思うと、牧悟郎博士は「私は好きにした。君たちも好きにしろ」という遺書のような文章を残し、忽然と姿を消しましたが、「君たち」とは、他でもないスクリーンの外側にいる、現実社会に生きる私たちのことを指しているのではないか。
こんな風に思えるほど、虚構と現実の融合に成功した稀に見る好書といるのではないでしょうか。
おススメです!

 

日銀総裁人事を「小事」とのたまう、ザンネンな人たち #キテレツ三段論法 #日銀 #日銀ダービー #おい高橋

ある政策通曰く

「金融政策は単純作業だからAIでも十分なので、安部さんにとっては多分誰でもいい。」

「総裁は子会社人事なので総理には小さい」

「副総裁は総裁を補佐する(by日銀法)ので総裁に楯突くことはできない。」 

なのだそう。さらには、

「安倍首相と飯を食えば、みんなファンになる。逆らえない」

「いざとなれば昼飯と称して黒田総裁をシバけばよい」

のだとか。

 

この人物の発言を整理してみると

安倍総理と飯を食えば、みな安倍総理の”言いなり”になる。

②つまり黒田総裁が安倍総理の言いなりになる。

③副総裁は総裁に逆らえない。つまり副総裁は(安倍総理の言いなりになった)黒田総裁に従うしかない。

という珍妙な3段論法が成立するようです。

 

ツッコミどころが多すぎて、何から突っ込んでいいのかわかりませんが、例えば、安倍総理と飯を食えば、みな安倍総理の”言いなり”になる」って、一向に言いなりにならない麻生とかどうなんですかね?

 

「政治家には効かないけれども官僚にはよく効く催眠術」というのが存在するのでしょうか。

それも財務官僚、内閣法制局にはまるで効き目がないようですが。

  

あと、この人物曰く「副総裁は総裁に逆らえない」らしいですが、2007年2月の金融政策決定会合によれば、当時、副総裁職にあった”ダメな方の岩田”こと、岩田一政氏が福井総裁(当時)に逆らって反対票を投じているようですが?

(P13~P14ページ参照)

政策委員会 金融政策決定会合 議事要旨
(2007年2月20、21日開催分)

http://bit.ly/2EgBOT8

 

ほんと、一番大事なこの時期に、くだらない戯言を吹聴するのは謹んで頂きたいですね。

 

リフレ派が馬鹿の集まりだと思われてしまう。

 

 

 

 

 

黒田再任で喜ぶその前に 雨宮阻止が勝負の分かれ目 #くたばれ日銀貴族 #日銀ダービー #アベノミクス #デフレ脱却 #日銀 #黒田再任

政府は黒田東彦日銀総裁を再任する方針を固めたというニュースが報じられました。

f:id:ScorpionsUFOMSG:20180210022612j:plain

 

日銀:黒田総裁、再任へ 政府が手腕評価 - 毎日新聞 

bit.ly

 

各社の記事を見るとこれによって現行路線の継承が確定的かのように報じられていますが、元々、黒田総裁再任は想定内のことであり、官邸側の勝利でも何でもありません。 

勝負の分かれ目は副総裁人事です。 

現状においても日銀プロパーの”ゴラム中曽”を副総裁入りさせたという安倍総理の「甘さ」インフレ目標2%を達成できない要因、すなわちデフレという生き地獄を脱却できていない要因となっていることは倉山満先生の指摘でも明らかです。 

 安倍内閣は勝ち切れるか? 日銀人事は日本国の天王山 by倉山満 週刊SPA! 2月6日号 - ScorpionsUFOMSG’s diary

bit.ly

安倍首相は、日銀出身者の中曽宏を、もう一人の副総裁に入れた。

この甘さこそが、この体たらくを招いたのだ。まさか、「日銀出身者を入れないと、日銀マンの士気が落ちる」などとでも考えたのか。 

現に、速水~福井~白川に連なる”赤い日銀貴族ども”「黒田再任、本田氏の副総裁入り」は想定内とし、あくまで「副総裁に日銀プロパーの雨宮理事を就けることが出来るか否か」勝敗ラインに設定しています。 

 月刊テーミス18年1月号より 日銀貴族どもからみた日銀総裁人事の勝敗ライン - ScorpionsUFOMSG’s diary

bit.ly

 

98年4月に“改悪”された新日銀法とともに始まった金融政策決定会合」の名付け親にして、会合の仕組みそのものを企画立案した人物であり、ミスター日銀」と書いて「悪党」と読むとされる、雨宮理事。

雨宮氏の副総裁入りを阻止し、副総裁を原田、本田両氏で固めてはじめて官邸の勝利と言えるでしょう。

 かってに日銀幹部名鑑 雨宮正佳 赤き日銀のプリンス ScorpionsUFOMSG’s diary

bit.ly

まだ勝負のゆくえは分かりません。それを肝に銘じる意味も込めて、最後に一言。  

雨宮、ゼッタイダメ!!

 

特別番組「まもなく5年に一度の天王山!脱デフレ杯G1日銀ダービー」山村明義 かしわもち 倉山満【チャンネルくらら・1月17日配信】

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ビジュアル増補版 書評『日本は誰と戦ったのか』 #江崎道朗 #KKベストセラーズ #書評 #本が好き #コミンテルン #情報戦 #歴史戦 #インテリジェンス

書評『日本は誰と戦ったのか』 江崎道朗著 KKベストセラーズ

 

インテリジェンス・ヒストリーから始めよう! スターリン工作史観が語る、中国が仕掛ける「新しい戦争」インテリジェンス~

 

■作品紹介

インターネット番組『チャンネルくらら』や月刊『正論』での連載でお馴染み、現在の保守論壇を牽引するインテリジェンス・安全保障のスペシャリスト、江崎道朗先生による、アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』、『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』の続編であり、対を成すともいえる一冊。  

アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄』では『ヴェノナ文書』の公開により、アメリカの保守派を中心に、第二次世界大戦の責任はF・ルーズヴェルト民主党政権と、その背後で日米戦争を仕掛けようとしていた共産主義組織(コミンテルン)にあるのではないか」という問題意識が浮上しており、その中には「日本の軍国主義者が世界征服を目論み、大東亜戦争を引き起こした」とする東京裁判史観の見直しも含まれていることを、

  

そして『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』においては、ルーズヴェルト政権がそうであったように、日本においても政府の自滅(経済失策、労働問題・貧困問題への無理解、右翼全体主義者らによる無用な言論弾圧)を利用する形で、ゾルゲをはじめとするコミンテルン、反皇室の左翼リベラルによって内部穿孔工作が張り巡らされていたこと、これらが日本を戦争に突き進ませる大きな要因となっていたことを明らかにしました。

  

これに対して本書『日本は誰と戦ったのか』は、『ヴェノナ』以降さらに踏み込んだ研究がなされているアメリカでの最新歴史研究、その最たるものともいえるM・スタントン・エヴァンズ著スターリンの秘密工作員を中心に、「F・ルーズヴェルト政権内中枢がコミンテルンの秘密工作によって、いかに操られていたのか」を見事なまでに暴ききっています。

■ヴェノナを超える衝撃

~『スターリンの秘密工作員』~『ヴェノナ』および『裏切られた自由』との対比から~

本書において中心的に取り上げられているM・スタントン・エヴァンズ著『スターリンの秘密工作』(未邦訳)は、まさに“ヴェノナを超える衝撃”ともいうべき内容を含んでいると言えます。

なぜか。

アメリカ国内におけるソ連スパイの存在を白日の下に晒した『ヴェノナ』。その歴史的価値は決して色褪せるものではありませんが、ヴェノナの描き出すソ連スパイたちの行動様式というのは、

「アメリカ政府内のソ連スパイがもたらす報告や盗み出した文書のコピーなどの大半は、ソ連諜報部のクーリエの手によってソ連に運ばれていたのである」(『ヴェノナ』第11章「ソ連の諜報活動とアメリカの歴史(結論)」より)

という一文や、原爆スパイたちの存在に代表されるように、得てして「アメリカから機密情報を盗み出したスパイ」という視点で語られがちです。

 

また大著『裏切られた自由』も(下巻は未読ですが)ハーバード・フーヴァー大統領自身が、文中で「歴史は、ルーズヴェルト氏の政治家としての資質を問い続けるに違いにない。」と述べているように、ソ連スパイやその協力者たちのアメリカ政府の外交に対する負の影響を考慮しつつも、どちらかというと「フランクリン・ルーズヴェルト本人が戦争を望んでいた」という視点で描かれている印象を受けます。

(駐英大使ジョセフ・P・ケネディ「本省からチェンバレンの背中を押せ」との指示があったことを明らかにしたというエピソードもその最たる一例といえます。)

これらに対して、スターリンの秘密工作員は、また別の視点を私たち読者に提供してくれています。それは、

「米国政府内に潜り込んだソ連スパイは機密情報を盗み出すだけでなく、情報を意図的に操作すること、さらにはルーズヴェルト大統領の健康不安に付け込むことによって、政策決定そのものについてすら、”決定的な影響力”を行使していたのではないか」

という視点です。 

東京裁判史観からスターリン工作史観へ

江崎道朗先生は上記歴史観の変遷を次のように分かりやすく整理してくれています。すなわち

①「(日米開戦は)日本軍による卑劣なだまし討ち」つまり「日本が悪かった説」

ルーズヴェルト民主党大統領が第二次世界大戦に参加するため、日本の機密暗号を傍受して日本軍の攻撃を知っていたのに、知らないふりをしたとするルーズヴェルトにも責任がある」説

③日米戦争に至る経緯に関する歴史研究が進んだことによる「日米両国はともに国益を追求した結果、戦争になった」説

④「ソ連スターリンが秘密工作員を使って日米和平交渉を妨害し、日米両国の対立を煽り、日米戦争へと誘導した」とするスターリン工作史観」

へと、歴史認識は変わってきているということです。 

特にスターリン工作史観」はアメリカの保守派、反共派、軍事専門家を中心に、ルーズヴェルト民主党政権と中国、ソ連、日本との関係を見直そうとする動きの中で論じられている歴史観なのだそうです。 

これら米国での歴史見直しを踏まえ、日本も「東京裁判史観」から脱却すべきであり、コミンテルンの秘密工作も踏まえたスターリン工作史観」へ転じるべきだと江崎先生は論じます。 

■なぜ今、米国保守、軍事専門家の間で「スターリン工作史観」が論じられているのか

東京裁判史観からスターリン工作史観へ転換すべきだ-。

只でさえ“コミンテルン”と書くと、いわゆる陰謀論の一種だと脊髄反射する人も多いようなので、この「スターリン工作史観」を唱えると、十把一絡げにその類のものだと決めつける人もいるかもしれません。 

ですが、むしろここで問うべきことは「なぜ今、米国保守派、軍事専門家の間でスターリン工作史観が論じられているのか」ということではないでしょうか。 

本書でも『スターリンの秘密工作員』に関する興味深いエピソードとして次のようなことが描かれています。

米軍の情報将校だった一人のアメリカ人が私のところに連絡してきました。彼は、アメリカにおけるいわゆる従軍慰安婦問題に関する反日宣伝の背後に、中国共産党北朝鮮の対米工作があると考え、その調査のために日本にやってきたのです。 

中国共産党の対米宣伝工作について調べている彼といろいろ話をしていたら、アメリカの保守派による日米戦争の見直しの動向が話題になりました。 

彼は「中国の軍事的台頭の背景には、第二次世界大戦当時の、ルーズヴェルト民主党政権外交政策の失敗があると考え、アメリカの保守派、反共派、軍事専門家の間で、ルーズヴェルト民主党政権と中国、ソ連、日本との関係を見直そうとする動きが活発になってきている。」として、いくつかの本を紹介してくれました。 

そのひとつがなんと『スターリンの秘密工作員』だったのです。

 このエピソードの中で注目すべきは、米国情報将校の視点でしょう。

それは、現在の中国の軍事的台頭と、第二次世界大戦当時のルーズヴェルト民主党政権外交政策すなわち日米戦争へと突き進んだことを関連付けて分析しているという点です。

■中国が仕掛ける「新しい戦争」

~心理戦、メディア戦、法律戦の”三戦”~

この米国情報将校の視点はどこからきているのか-。

日本が好きで、日本によく思われたいから「日本が正しかった」と主張しているのでしょうか?おそらく違うでしょう。

では、米軍情報将校らの視点はどこから由来するのか。

それを紐解く鍵はピーター・ナヴァロ著の『米中もし戦わば』に求めることが出来そうです。  

『米中もし戦わば』では、21世紀において中国がその領土的野望を前進させるのに効果を発揮したものとして、従来のキネティック(殺傷兵器)的な軍事力を行使する戦争ではなく、ノンキネティック(非殺傷兵器)な“新しいタイプの戦争”、すなわち「三戦(心理戦、メディア戦、法律戦)」の存在を挙げています。 

  1. 心理戦…相手国とその一般国民を脅したり混乱させたり、あるいはその他方法でショックを与え、反撃の意思をくじくこと。
  2. メディア戦…国内外の世論を誘導し、欺されやすいメディア視聴者に中国側のストーリーを受け入れさせること。ケンブリッジ大学の元・ホワイトハウス顧問のステファン・ハルパー教授曰く「現代の戦争を制するのは最高の兵器ではなく、最高のストーリーなのだ」 
  3. 法律戦…現行の法的枠組みの中で国際秩序のルールを中国の都合のいいように曲げる、あるいは書き換えること。
現代における三戦の利点は、以前ならキネティックな手段によってしか実現できなかった目標を達成するための、新しい手段を提供しているという点である。さらに、三戦は互いに結びついて非常に高い相乗効果を生み出す。
曖昧な歴史に基づいて不当に領有権を主張する。(法律戦)
 次に、問題の海域に民間船を大量に送り込んだり、経済的にボイコットするなど、あらゆる形態のノンキネティックな戦力を展開する。(心理戦)
そして、最後に「中国は、屈辱の100年間に列強の帝国主義に踏みにじられた。平和を愛する中国は、歴史的な不正行為を正そうとしているだけなのだ」というストーリーを広め、国際世論をコントロールしようとする(メディア戦) 以前なら軍事力の行使によってしか達成できなかった、領土拡大、現状変更という目標の達成を、三戦は明らかに目指している。

中国の行動をこのように解釈することが本当に正しいとすれば、われわれが取り組んでいる「米中戦争は起きるか」という問題にある意味はっきりとした答えが出たことになる。

つまり、中国はアメリカとその同盟諸国を相手に、ノンキネティックな新しい戦場ですでに戦っている。中国のサイバー戦士たちが宣戦布告なしの戦争をサイバー空間で遂行しているのとまったく同じように。

この現実を考えれば、ペンタゴンやアジア各国の防衛省はその任務権限を拡大し、三戦に対抗する戦略を取るべきだろう。今からでは遅すぎるかもしれないかもしれないが。
byピーター・ナヴァロ著『米中もし戦わば』より 

つまり、“現代の戦争”とは、なにものにも増して「情報戦」の様相を呈しているということであり、歴史戦も現代の戦争の一部なのです。

にもかかわらず、日本国内においては、対外インテリジェンス機関の創設は思ったほど進展しておらず、インテリジェンスの専門家が不足しているというのが現状のようです。 

そして、インテリジェンスの専門家が増えない背景には、インテリジェンスの基礎、つまり「インテリジェンス・ヒストリー」という学問が日本では十分に確立していないという側面が多分に関係していると江崎先生は考えており、だからこそ、本書においてアメリカ国内での最新歴史研究であるスターリン工作史観の内容をこれでもかというくらい丹念に紹介しているのです。 

■インテリジェンス・ヒストリーの重要性 北方領土問題の発端はヤルタ会談にあり!?

~アジアの権益を売り渡した工作員たち~

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インテリジェンス・ヒストリーの重要性がわかるエピソードをひとつご紹介させて頂きたいと思います。 

我が国の外務省のHPでの説明によれば、北方領土問題は、「ソ連による日ソ中立条約に反して、ソ連が対日参戦し、ポツダム宣言受諾後の1945年8月28日から9月5日までの間に北方四島のすべてを不法に占領したことに端を発している」とされています。  

しかし事実はそうではなく、遡ること半年前の1945年2月11日に米・英・ソで署名された「ヤルタ会議文書-ソ連の対日参戦に関する協定」こそが、ソ連の対日参戦と引き換えにアジアの莫大な領土と権益をソ連に与えるという内容であり、かつ、上記ソ連の軍事行動を是認する根拠となっていたことが本書では明らかになっています。 

しかも、このヤルタ協定は、その内容を詰めて協議していた当時から、「そもそもソ連に対日参戦を要請する必要はない」、「仮にソ連に対日参戦してもらうにしても、これほどの権益を与える必要はない」という意見が米国政府内や軍部内からは多く寄せられていました。 

にも拘わらず、それらの意見は無視され、ほぼソ連の意向に沿うような形での協定が結ばれたのだというのです。 

なぜか。

ヤルタ会談を仕切っていた中心的存在の米国政府職員がコミンテルンのスパイ、スターリンの秘密工作員であるアルジャー・ヒスだったからです。

アルジャー・ヒスは国務省からのレポートや米軍関係者の意見を握りつぶし、ソ連に有利となる情報しかルーズヴェルト大統領らに挙げていなかったのです。 

その結果、どうなったか。

日本から見れば、日露戦争後のポーツマス条約で正当に獲得した南樺太の領土や満洲の権益を「背信的攻撃で奪った」という言いがかりで奪われ、千島列島も奪われることになりました。 

アメリカ国民にとっても同様です。ヤルタ密約はアメリカの国益を大きく損なうものであり、戦略的に重要な南樺太と千島列島をソ連に抑えられるだけでなく、満洲を実質的に支配されたことで中国大陸の共産化が進み、現在に至るまで冷戦に苦しむことになりました。 

これはほんの一例に過ぎませんが、「日米が互いに血を流して戦った戦争とは一体何だったのか」と思わずにはいられません。まさしく、ソ連コミンテルンにいい様にしてやられた」と言わざるを得ないのではないでしょうか。 

こういった秘密工作、裏工作の歴史(インテリジェンス・ヒストリー)を知らずして、的確な情勢分析などできるはずもありませんし、「どうやって北方領土を取り返すのか」という「知恵」が湧き出るはずもないのは自明なのではないでしょうか。 

■『インテリジェンスを一匙』から読み解くインテリジェンスのススメ

長年、東京裁判史観が染みついてしまい、インテリジェンス・ヒストリーを学ぶ機会すら失い、インテリジェンスの基盤が大きく揺らいでいる我が国においては、専門家を育成しようにもそれ相応の時間も手間もかかるであろうこと、育成のみならず専門家を活かす組織づくりにおいてすらも、その道のりは遠く険しいものであることは想像に難くありません。

では、私たちは、中・ソの仕掛ける情報戦に一方的に打ちのめされるしかないのでしょうか?

ただ手をこまねいていることしかできないのでしょうか?  

「否。そうではなく、私たち一人一人ができることがあるのだ」ということを教えてくれる一冊があります。

警視庁公安部長、警察大学校長を歴任した元内閣情報調査室長の大森義夫氏の著著『インテリジェンスを一匙』です。

 

“インテリジェンス初心者向け”に平易な文章でわかりやすく、けれども実経験に基づくインテリジェンスの在り方が書かれており、「学問のススメ」ならぬ「インテリジェンスのススメ」といった趣です。 

その内容を若干の編集も加えてスローガン的に書き出してみると次のようなものになります。

  1. 負け戦から教訓を学ぼう。負け戦から教訓を学び、勝ち戦で自信をつけることによって組織は強くなる。 
  2. 無知でお人好しな国家をやめることから始めよう。「平和国家だから他国の情報を採ったりしない」という幼稚な議論はあるが、最低限デマ情報を検証、反芻する程度のインテリジェンスがあってどこが悪いだろう。平和国家とは無知でお人好しな国家のことではない。 
  3. 日本のインテリジェンス再建は、100%防衛的なカウンター・インテリジェンス組織の構築から始めよう防衛戦を重ねているうちに米国はじめ攻撃的インテリジェンスにたけた国々が世界レベルとはどんなものか教えてくれるに違いない。 
  4. 与件を疑うことから始めよう。「与えられた条件の下で解を求めよ」というのは受験勉強だけであり、現実はまず与えられた条件を疑うことから始まる。
  5. 正直に、しかし狡知に身構えよう。情報の世界では平時も戦時もない。北朝鮮もアルカーイダさえも衛星によって見られていることを、聞かれていることを前提に行動している。デコイ(おとり)を置いたりフェイク(欺罔)情報を発信したりは、日常茶飯事である。正直に、しかし狡知に身構えなくては情報戦に敗れる。
  6. プロになろう。国際政治の理論をいくら聴講してもプロにはなれない。先輩の技を真似ることである。終戦時の大本営情報参謀だった堀栄三は、戦後ニューヨークの株式市況を毎日開いているうちに、薬品会社と缶詰会社の株が上がると米軍の攻勢があることを発見した。公然の事実から法則性あるいは発展性を探りだすのが優れた情報マンの技である。
  7. 上兵伐謀を旨としよう。つまり一番よい対策は企ての段階で犯行の意図を挫折せしめることだ。これは公安三課の方針でもある。
  8. 観察力と知恵を鍛えよう。現代の情報戦は知のオリンピックでもある。必要なのは腕力ではない。観察力と知恵だ。世俗の雑知識(ナレッジ)を超えて、右脳を生かし、感性の光る思考をしようではないか。
  9. 誠実さと分別を、思いやりと決断力を兼ね備えた人物になろう。インテリジェンスは騙されたり、騙したりのビジネスだ。それだからこそ人を裏切らない誠実さが第一である。本物のインテリジェンスか偽物かの識別は極めて明白である。基準はただ一つ、訓練されている(well-trained)かどうかである。心身を、そして能力と行動様式を正規に鍛えていない者をインテリジェンスとは呼ばない。
  10. 日本としての情報を持とう独自の情報を持てば、独自の政策を持てる。 

 ■インテリジェンス・ヒストリーをもう一匙 

この「インテリジェンスのススメ」に次の項目を追加してみてはどうでしょうか。

11.インテリジェンス・ヒストリーから始めよう。すべての出来事には歴史の流れがある。物事には、まず過去というものがあり、そのために発生し、そこに至るまでの流れや行為、そしてその成り行きというものが将来に残っていくものだ。

歴史を学び、インテリジェンスの基盤を、足腰を鍛えよう。プロセスを知らずに始める交渉ほど愚かなことはない。 

文章の元ネタはエドワード・ルトワックと並び称される世界三大戦略家の一人、コリン・グレイ氏から拝借しました。

全ての戦争には「歴史」のコンテクストがある。

戦争にはまず過去というものがあり、そのために発生し、そこに至るまでの流れや行為、そしてその成り行きというものが将来に残っていくものなのだ。

Byコリン・グレイ著『戦略の格言』

 

 

創作ネタではありますが、それほど的外れではないと個人的には思っています苦笑

江崎先生も本文中で

本書を読んで「やはりルーズヴェルト大統領とスターリンが悪かったんだ。日本は悪くなかったんだ」というような誤読はしないで頂きたいということです。

国際政治の世界ではだまされた方が悪いのです。

そして先の大戦では日本はインテリジェンスの戦いで敗北したのです。

インテリジェンスの戦いで対抗するということは、中国などを敵視することではありません。敵視するのではなく、中国やロシア、北朝鮮の動向を懸命に調査し、分析し、できるだけ正確に理解しようとすることです。

本書でいえば、スターリンの秘密工作員がどのような戦略でどのような秘密工作を仕掛けたのか、膨大な資料と格闘しながら調査し、分析し、工作内容を正確に理解しようとすることが重要なのです。

 と語っておられます。

現にクラウゼヴィッツの「正しい読み方」』やエドワード・ルトワックの戦略論』『現代の戦略』などを読むにつけ、欧米諸国においては、未だに近代軍事戦略論のケーススタディ第一次世界大戦を中心に考えられているようです。

 

第二次世界大戦なんぞ所詮、第一次世界大戦の延長に過ぎない」と言う程度の認識であることを考えれば、米軍関係者が第二次世界大戦を『スターリン工作史観』でもって痛苦な反省のもと、分析しようとしているのであれば、それは驚くべき転換とみるべきではないでしょうか。

(大体において第二次世界大戦に関する事柄といえば、ドイツの電撃戦か、核戦略のどちらかぐらいだった気がします。)

それだけ、米軍関係者も“必死”にインテリジェンス・ヒストリーを学んでいるのだということです。  

インテリジェンスの必要性とともに、その基盤としてのインテリジェンス・ヒストリーの重要性を教えてくれる一冊です。 

おススメです!!

書評『消された政治家・菅原道真』 あなたの知らない“政治家”菅原道真の治績 ~大蔵官僚、大蔵事務次官にして蔵相だった道真~

書評『消された政治家・菅原道真』平田耿二著 文春新書

あなたの知らない“政治家”菅原道真の治績

~大蔵官僚、大蔵事務次官にして蔵相だった道真~

 

「学問の神様」、菅原道真

宇多天皇の厚い信任のもと右大臣として、栄達を極めながらも、藤原時平の政略により太宰府に流され、非業の死を遂げた文人

現代に伝わる道真の業績といえば遣唐使の廃止」ですが、実は道真は、学者のみならず、大蔵官僚というキャリア官僚としての側面も持ち併せ、栄達したのちは蔵相として、あるいは官僚機構のトップを担う大蔵省事務次官国税庁長官として大規模な税制改革を企図していたのだそうです。

 

当時の税制は成人男子に対して一定の税を課す人頭税を中心としたものでしたが、虚偽申告が横行し、その実勢把握は困難を極め、著者の計算でいけば、成人男子7万人のうち実に3万人~5万人が脱税していた計算になるのだそう。

 

当然、政府の財政はひっ迫し、治安は乱れ、民衆は困窮します。

国家体制の土台が崩れていくことに危機感を覚えた道真が断行しようとしたのが人頭税から土地課税への転換”という大規模な税制改革でした。 

その過程で行われた大規模な土地の実勢調査は「平安の太閤検地ともいえるもので、その様相は現在の不動産登記簿謄本や公図、国勢調査の原型を思わせます。 

本書はあくまでも「内政」「税制改革」における菅原道真の業績に主眼を置いた内容になっており、遣唐使の廃止も税制改革、国政改革を優先したからだ」という視点で描かれているため、当時の国際情勢からみた視点や、道真は渤海客使という外交官としての側面もあったという点についての記述が少ないのがやや残念ですが、菅原道真という政治家”、”菅原道真という官僚“の政治における治績を知る上では、とても興味深い一冊と言えます。 

おススメです!